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行く道を開く神

詩篇89章6~8節、テサロニケの信徒への手紙一3章11〜13節
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主日礼拝説教

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行く道を開く神

あなたがたの信仰にはまだ欠けているものがある。神がそれを補ってくださるように、祈ります。昼も夜も、あなたがたのために祈ります。そう言ってパウロは、実際にこう祈り始めました。三つの祈りを、パウロはここでささげています。

一つ目は、父なる神と主キリストが、「そちらに行く道を開いてくださる」ように。もう一度テサロニケに行きたい。行って、あなたたちと会い、無事を確かめたい。互いの信仰を確かめたい。この手紙の始めから、再三にわたりパウロは、自分の望みを言い表してきました。いわれない迫害のため、この町を去らねばならなかったパウロにとって、悲願といってよい願いを、パウロは神に祈り求めました。御心ならば、どうか神様、テサロニケに行く道をどうか開いてください。

パウロのこの願いが実際に聞かれたかどうか、はっきりしません。使徒言行録20章をみると、その後、マケドニア州とギリシアに行く道がパウロたちに開かれました。テサロニケの町はマケドニア州にあります。だからパウロの祈りは神に聞かれたのだ。テサロニケをもう一度訪れることができたのだ、とみる人もいます。でも、これが実現したのなら、聖書にはっきりそう書いてあってもおかしくないでしょう。しかし、パウロがこれほど切望したテサロニケ再訪問について、聖書は一切触れていません。

むしろ私は、テサロニケを再度訪れることはできなかったのではないかと想像します。それでもパウロは、そのことを神に願い、祈り続けました。実現するかどうかではなく、ひとつのことを神に祈り続ける。あきらめずに忍耐強く祈り続ける。そこに、初代教会のひたむきな信仰と強さをみる思いがします。

次に、パウロがささげた祈りは、こうです(二つ目の祈り)。

「互いに愛し合い、すべての人を愛する」愛で、神が、あなたがたの心を満ちあふれさせてくださるように。

最初の祈りのあと、パウロは、教会の人びとのために祈ります。愛する者となれるように。それも教会の中にいる仲間を愛するだけでなく、すべての人を愛する者となれるように祈ります。すべての人、そこには自分たちを迫害し、教会が頼りにしてきたパウロを町から追い出した人たちも、含まれています。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイ5章46)。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同5章44)。

信仰に入る前までは、わたしたちも神を憎み、神に敵対する者でした。そのようなわたしたち罪人を神は愛し、キリストをお与えになりました。御子を十字架に送り、わたしたちの罪を赦して、神の子どもとして受け入れてくださいました。だからわたしたちも、キリストのゆえに神に赦され愛されている者として、この恵みに応えて、兄弟姉妹を愛そうではないか。あらゆる人びとを愛し、仕えていこうではないか。そういう呼びかけの祈りです。迫害する人びとが、キリストの恵みに触れて回心し、わたしたちと同じように救われることを願います。

こうして、パウロささげる祈りはクライマックスに達します(三つ目の祈り)。

主イエスが再び来られるとき、父なる神が、その御前でわたしたちを、「聖なる、非の打ちどころのない者」にしてくださるように。

敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。そうおっしゃったキリストの御言葉は、このように結ばれています。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48)。

天の父が、独り子イエスを十字架につけたのは何のためだったでしょう? キリストを信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためです。言い換えれば、罪の子から神の子どもへと買い戻されるため。終わりの日に向かって、わたしたちを、きずもしみのない神の子とするためです。

キリストを信じて罪を赦されたわたしたちは、あらゆる人びとを愛し、神を心から喜ぶ神の子どもへと育てられていきます。「聖なる者、非の打ちどころのない者」へと、聖霊によって造り変えられていきます。これこそが、歴史の終わり、主の再臨によってもたらされる、信仰のゴール・救いのゴールです。神が備えたこのゴールへとわたしたちを教え、導き、養い、訓練してくれる場が教会です。

パウロは、信仰者がたどる救いの道のりを見据えて、わたしたちすべてのために祈りをささげました。わたしたちの「行く道を開いてください」。テサロニケに行きたい。この願いが叶えられたかどうかはわかりません。しかし、パウロが願った以上に、その祈りは神に聞き入れられました。なぜなら、すべての人を愛する道、きずもしみもない神の子どもとして完成させられる道を、キリストにおいて神は開かれたからです。

パウロの祈りにささえられて、わたしたち教会は、世の終わりに再び来られるキリストを待ち望みます。主を待ち望むとは、何もせずただ指をくわえて、待つのではありません。主の招きに応え、聖なる者として生きることを、この地上でもうすでに始めているのです。愛するための苦労をいとわず、悪戦苦闘を避けません。失敗もおそれません。たとえうまくいかなくても、やがて主が来られて、この世界とわたしたちのすべてが新しくされる日が必ずやって来るからです。成功や失敗に一喜一憂することなく、主がわたしたちのために開いてくださった道を、喜び・祈り・感謝をもって、歩み通して行きたいのです。

2020年9月20日 聖霊降臨節 第17主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師