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主の耳に達するほど

民数記11章1~15、ヘブライ人への手紙3章16~18
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主日礼拝説教

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主の耳に達するほど

イスラエルの民は、神の手に導かれてエジプトから出てきました。430年に及ぶ奴隷生活に、神様が終わりをもたらしてくださいました。あれから一年少しが経ちました。雲の柱と火の柱で神様に導かれて、今日も荒野の旅を続けています。

ところが、ある場所に来たとき、事件が起きました。天からの火が燃え上がり、イスラエルの宿営が焼き尽くされそうになったのです。火の不始末が原因ではありません。イスラエルの民が「主の耳に達するほど、激しく不満を言った」からです(1節)。

砂漠の中、飢えと渇きを訴えた者たちがいて、それが民全体に飛び火しました。彼らは砂漠の真ん中で、何度も泣き言を言いました。「誰か肉を食べさせてくれ!」。エジプトにいたときはよかった。ただで魚を食べられたし、きゅうりやメロン、ネギやたまねぎ、ニンニクもあった。こんなことなら神様を信じてエジプトから出てくるのではなかった! くりかえし、そう口にしたのです。

前にも、同じような場面がありました。出エジプト記16章です。エジプトを出て2~3か月、荒れ野の旅を始めたばかりのイスラエルが、同じ不平をモーセとアロンにぶつけています。「エジプトで死んだ方がましだった。あのときは、肉のたくさん入った鍋とパンを腹いっぱい食べられたのに」(出エジプト記16章1~3)。モーセとアロンに向かって、「あなたたちは我々を荒野に連れ出し、飢え死にさせようとしている」とまで口にします。これを聞いて主なる神は、マナという不思議な食べ物を天から降らせました。その日一日、家族みんなに必要な十分な量のマナが、毎朝、家族ごとに与えられたのです。このマナは、荒野の旅を終えて、イスラエルが約束の土地に入るまで続きます。40年の間、一日も欠けることはありませんでした。

このときは、食べ物が本当に何もなくて、もしマナがなければ、皆、死に絶えるところでした。でも民数記11章は、そのときとは決定的にちがいます。食べ物はあるのです。今日も、天からのパン・命のマナを神様が降らせてくださっています。マナを食べて、荒野を生き抜くことができるのです。にもかかわらずイスラエルは、不平を言い続けました。「もうマナなど飽きた、エジプトで食べていた物が恋しい」。

民の不平は、すぐに神の耳に達しました。イスラエルは、神に向かって不平を言ったつもりはありませんでした。彼らは、神にではなく、モーセに向かって、不満を言い募ったのです。その証拠に、天からの火が彼らを襲ったとき、イスラエルは、神にではなく、モーセに向かって言っています。「助けてください」と。

これこそ、イスラエルが繰り返した罪です。この罪は、二重の意味で、神を怒らせ、悲しませました。神を信頼しようとしない。これが第一の罪です。

たとえどれほど、過酷な現実の中を歩まねばならなくとも、神は必ず、それを乗り越えることができるよう、命の糧を与えます。わたしたちの信仰を神が守り、養い支えてくださいます。このことを信じ切れず、疑い、不平不満を言わずにはいられない。イスラエルが犯し続けた不信仰に、わたしたちも陥っているかもしれません。

しかしイスラエルは、もっと大きい罪を犯しています。なぜ神に直接、訴え、祈らないのか? という罪です。

マナは飽きた、肉を食わせろ。イスラエルは、モーセに迫ります。自分たちは、神様に不平や文句など言っていない。モーセに言ったのだ。モーセがもっとしっかりしていれば、こんなに苦労はしないのだ。でも、そのような言い訳が、神の前で通用するでしょうか。イスラエルをエジプトから救い出したのも神なら、モーセをイスラエルの指導者として立てたのも神様だからです。荒野の道にイスラエルを導き入れた神が、砂漠の道の途上で、命のパンを与えてくださっています。飽きるほどに与えます。

このあと10~15節をみると、モーセが、苦しみを神に打ち明け、祈り始めます。イスラエルのどの家族も皆、泣き言を言う。それを聞いて主なる神は激しく憤っておられる。それでモーセは神に言います。「神様、もう無理です。私はこの民を導いていくことはできません」。こんな重荷にはもう耐えられません。もしわたしを憐れんでくださるなら、どうかこの場で、神様あなたの手で私を殺してください。

イスラエルの民とモーセのちがいは明らかです。なぜ神様がモーセを選ばれたのか、わかる気がします。イスラエルは、どれほどひどい不平を言っても、これは神様に言ったのではない、モーセに言ったのだ。モーセはそう言われて当然の人間だ。そう言って、神様から自分を隠そうとします。しかしモーセは苦しいとき、思いをありのまま、すべて神様に打ち明けます。自分はふさわしくないので、神様の手で私を葬ってください、とさえ祈ります。

このモーセを主なる神はお立てになり、反抗し続けるイスラエルを約束の土地に導きます。その御計画を決しておやめになりません。モーセの苦しみを神は受け止め、解決策を与えます。モーセを支え、モーセと共に民を導く長老たちを立てなさい、というみ言葉です。このことは次回述べます。

自分たちは神に不平など言っていない。モーセが悪いのだ。そう言って、神に反抗し続けるわたしたち。マナには飽きた。いつも通りの礼拝、代わり映えしない説教、もううんざりだ。もっと別のもの、魅力あるエジプトの食べ物が欲しい。そう言って、神への反抗を止めることができないでいます。わたしたちのこの声は、まちがいなく天の父に届いています。この罪の責任は、わたしたち一人ひとりが背負わなければなりません。しかしいったい誰が、この罪を本当に背負うことができるでしょう。

私のこの罪を、天の父は、キリスト一人にすべて背負わせ、償ってくださいました。さらに天の父は、今日もわたしたちを、天からのパン・命の御言葉で養い、キリストの民としてくださっています。罪のため肉を裂き血を流されたキリストこそ、わたしたちの希望、力、命の源です。来週は聖餐式礼拝です。赦された喜びと感謝、心からの悔い改めをもって、主の食卓にあずかりましょう。

2020年9月27日 聖霊降臨節 第18主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師