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神に喜ばれるために

(詩編69編31~32、テサロニケの信徒への手紙一4章1~8
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主日礼拝説教

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神の国の食卓

「神に喜ばれるために」、そうパウロは呼びかけています。神に喜ばれるためには、どう歩んだらよいのか。すでにそのことをわたしたちは御言葉から学んできました。そして、現にそのように生き始めています。

では「神に喜ばれるために」、実際、どう生きていったらよいのでしょう? そもそも「神に喜ばれる」とは、どういうことなのでしょう。このことをパウロは、こう言っています。3節「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」。神は、わたしたちが聖なる者となることを望んでおられます。聖なる者となること、これこそが神に喜ばれるただ一つの道です。

それなら、「聖なる者となる」とは、どういうことでしょう? 何に気をつけ、どこを目指して行けばよいのでしょう? このことが5節以下で、具体的に述べられています。まず一つは、「みだらな行いを避ける」こと。妻や夫がいる者は、「汚れない心と尊敬の念をもって」、妻や夫と生活しなさい。まちがっても、神を知らない異邦人のように、「情欲におぼれては」なりません。もう一つは、6節「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺い」てはなりません。ここには、男女の情欲に溺れるあまり、他人の妻や娘を奪ったりして、兄弟を苦しめ悲しませてきた。そういう罪が想定されているかもしれません。

教会の人々に、こういうことを言わなければならないのには理由がありました。テサロニケはギリシアの港町で、貿易の拠点、経済的にとても栄えた都市です。地中海世界のあらゆる国・都市から大勢の人びとが集まってきます。そのため、昼間は人の賑わいの絶えない町が、夜には退廃した街に変わります。そうした誘惑が日常的にとても多かったのです。二千年前の男性たち、そして社会は、そうしたものを不道徳だとは決して思いません。一生懸命働いて、妻や家族を養っている男たちにとって、一夜の楽しみ、それはなくてはならない息抜きであり、自分へのご褒美でさえありました。それが当時の常識だったのです。

教会で神を礼拝し、キリストを信じるようになったテサロニケの信徒たちも、ついこの前まで、そうした世の中を生きてきました。すでにイエス・キリストによる罪の赦しや救いを信じるようになってはいても、良くない生活・いつわりの愛と手を切るのには、相当の努力と戦いが必要でした。せっかくキリストを信じて神の愛と永遠の命に生かされるようになったのに、この世の誘惑に負けて、かつての罪深い生活に逆戻りしてはならない。そうなってほしくない、と強くパウロは思っていました。エジプトの奴隷の家からせっかく救い出されたのに、「エジプトに帰ろう、エジプトにいたときの方がましだった」。旅の途上でイスラエルがそう叫んだように、わたしたち教会も、一歩まちがうと、同じ誘惑と過ちに陥る危険があるのです。

この誘惑に打ち勝つために、パウロは、神の御心を思い起こしなさい、とわたしたちに呼びかけます。神の御心、それは、わたしたち罪深い人間を救うために、天の父が、かけがえのない御子イエス・キリストをお与えになったことです。神の願いは、キリストを信じて罪赦されたわたしたちが、一人残らず神の国を受け継ぐこと。神の国に至る途上で、砂漠の道の真ん中で、再び罪の奴隷に自分自身を売り渡してしまうことのないように。そのため御子をくださった父は、御自身の聖霊をも与えてくださいました。聖霊こそ、私たちの頼みです。

というのも、どれほど罪の誘惑を退けようとしても、自分一人では歯が立ちません。みんなで立ち向かっても、結果は同じです。そもそも、罪の誘惑にわたしたちは気がつきません。知らずのうちに忍び寄る誘惑を、どうやって退け、打ち破ることができるでしょうか?

わたしたちは、罪の誘惑にあまりにも無防備で無頓着です。しかし、わたしたちには救い主イエス・キリストがいます。罪に勝利されたキリストは、世の罪の大きさも、わたしたちの罪深さ・弱さもすべてご存じでした。最後の晩餐のとき、弟子たち全員が自分を裏切ることを知っておられたのですから。「死んでもあなたに従い通します」。真剣にそう誓った弟子たちが、そのすぐあと裏切っていく。弟子たちは、自分でも知らなかった罪に打ち負かされ、打ちのめされます。この罪と後悔のどん底から、キリストが、わたしたちを拾い上げ、救ってくださいました。わたしたちの罪をすべて知り尽くしているからこそ、わたしたちを完全に救うことができたのです。わたしの罪を一つ残らず引き受け、十字架の上ですべて償うことがおできになりました。キリストこそ、わたしたちの救いであり慰め、そして希望です。

このキリストからわたしたちは、あふれるばかりに愛と赦しを受けています。永遠に変わることのない真実な愛、そして赦しです。これが、わたしたちの力です。どうしようもなく罪深いわたしたちを、ここまで赦し、愛し、受け入れてくださる。これほどまでキリストに愛されているのだから、今度は愛することを始めようではありませんか。教会は、昔も今も変わることなく、キリストの愛に生かされています。キリストにおいてあらわされた神の愛、真実な愛を、これほどまで味わい知っているのは、教会だけです。でもわたしたちは、キリストに愛されたことは十分知って感謝しても、キリストに赦された者として人びとを愛することは、まだ決して十分とはいえません。

キリストに赦され、愛されているのですから、もう兄弟を踏みつけたり、欺いたり、むさぼり奪うことは止めようではないか。愛されることよりも愛することを、与えられるよりも与えることを喜ぼう。神が今日も注いでくださっている愛と恵みに押し出され、神の御心に従い、聖なる者になりなさい。人の目を気にして、人を喜ばせたり、自分自身の喜びのためだけに生きるのではなく、神に喜ばれるために努力しなさい。これは、とこしえに変わることのない神の愛を味わい知った者だけに可能な、愛に生きることへの呼びかけです。

神がわたしたちをこの救いに「招かれた」のは、汚れた生活をさせるためではなく、神に喜ばれる聖なる人生を送らせるためです。このために、天の父は独り子を惜しまずささげ、キリストの霊・聖霊をもわたしたちに豊かに与えてくださっています。

神に喜ばれる、真実な愛に生きるために。キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりこそが、わたしたちの命綱です。この交わりが真の愛に目覚めさせ、聖なる者へとわたしたちを造り変えます。神のこの約束を信じて、神に喜ばれるために、神の栄光のために、教会のすべて、わたしたちの生活のすべてを、キリストにささげましょう。これにまさる喜びはありません。

2020年10月18日 聖霊降臨節 第21主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師