トピックス

主と出会うために

アモス書4章12、テサロニケの信徒への手紙一4章13~18
お知らせ
主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

神からの答え

「イスラエルよ…自分の神と出会う備えをせよ」。預言者アモスは、イスラエルの人々にそう呼びかけました。この呼びかけは、今、イエス・キリストを信じて救われている、わたしたち、教会への呼びかけでもあります。

テサロニケの教会の人びとに、パウロはこう呼びかけます。「希望をもたないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。そう言って、信仰者にとり、最後の大いなる希望を語ります。たとえ、キリストを信じて眠りについたとしても、その者を、神は、キリストのゆえによみがえらせてくださる。永遠の命へと、必ず、導き入れてくださる。これを望みに、今を生きていきなさい。そう、わたしたちを励まします。

しかし、このあと話題はすぐに、キリストの再臨へと進んでいきます。いえ正確には、世の終わりに再びキリストが来られるそのときにこそ、わたしたちの復活は起こるのだ。そう告げています。このことは、わたしたちが信じ告白している信仰とは、どういう信仰か。そのことに、気づかせてくれます。

わたしたちの信仰は、十字架と復活の信仰です。教会でよくそう言われます。いいかえれば、キリストを信じて罪を赦され、永遠の命を受け継ぐ。これこそが福音であり、わたしたちが信じていることです、と。その通りです。キリストがわたしたちの罪のために死んでくださり、キリストを信じるなら、わたしたちの罪はすべて赦されています。こうしてわたしたちは、キリストのゆえに神に受け入れられ、神の子どもとされて、永遠の命を受け取ります。

ただ使徒信条には、つづきがあります。死んで葬られたキリストは、陰府に降り、復活したあと天に昇り、神の右に座しておられます。そこから、生きている者と死んだ者を審くために再び来られます。このことすべてを、聖書に基づき、信じ告白しているのが、教会です。

テサロニケの教会への手紙にみられるように、初代教会の人びとは、はじめから、「世の終わりに、再び来られるキリストを待ち望む」信仰を生き生きと抱いていた。これまでも、そうお話ししてきました。パウロという人は、確かにそうでした。けれどもテサロニケの教会の人びとは、最初からそうではなかったかもしれません。彼らは、パウロの自慢の信徒たちでした。神への愛、キリストによって罪赦されたよろこびと、復活の希望に生き生きと歩んでいました。教会で、世の人びとがうらやむくらい、互いに愛し合って生きておりました。それはまちがいありません。しかし、地上での教会の愛の交わりで満足してしまって、世の終わりに再び来られるキリストを待ち望む信仰は、必ずしも十分でなかったかもしれません。

その人びとが「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(1章10)のは、使徒たちからくりかえし、主の御言葉を聞き、養われていったからです。パウロたちはくりかえし語ったのです。主を待ち望む信仰に目覚めてほしいと。世の終わりに再び来られるキリストを待ち望む。これこそわたしたちが目指す、信仰のゴール・目標です。罪の世界が終わりを迎え、われわれとこの世の救いが完成される輝かしいときです。信仰のゴール・歴史の目標を見失ってしまったなら、教会もわたしたち一人ひとりも、糸の切れた凧になってしまいます。行く先を失った、さまよえる舟になってしまうのです。

パウロは言います。このことは、主イエス・キリストがあらかじめお語りになった御言葉に基づいている、と。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来る」のを見る。「人の子は、大きなラッパの音を合図に…天の果てから地の果てまで、…選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マタイ24章30~31)。

主イエス・キリストの再臨を待ち望む。ここでパウロは、大切なポイントを二つ示します。ひとつは、信仰を抱いて既に世を去った人も、この地上で生き延びてキリストを迎える人も、同じように主は受け入れ、復活の命に目覚めさせてくださいます。再臨の日、生きているか、眠りについているか、そこに優劣はありません。信仰を守り通した者たちを、主が、永遠の命へとよみがえらせます。わたしたちの復活は、世の終わりに、再び来られるイエス・キリストによって始められ、実現されるのです。

二つ目。キリストが天の雲に乗って「降って」こられるとき、死の眠りからわたしたちを呼び覚まし、天へと「引き上げて」くださいます。

キリストを信じて罪を赦されたとはいえ、わたしたちは罪人です。罪の重さをもったわたしたちが、キリストのおられる天上の御国へ、いったいどうやって「昇っていく」ことができるでしょう? キリストがわたしたちのところまで降りて来てくださる。上から手を差し伸べ、神の国にまで「引き上げてくださる」。だからこそ、わたしたち罪人にも、神の国を見ることができます。わたしたちにとって生涯の目的は、救い主イエス・キリストと出会うことです。この方と、永遠に「出会うために」。目覚めていても眠っていても、永遠に主と共に生きるために、この方を待ち望んでいるのです。

ところで、主キリストとわたしたちが「出会う」場所は、「空中」です。この空中とは、聖書の世界観では、サタンや悪霊、魑魅魍魎が活動する、暗躍する恐るべき空間です。この意味でも、この空間を自分の力で突破して、神の国に行くことなど、わたしたちにはできません。主の力強い手で引き上げてもらわなければ、永遠の国を見ることもできません。

主は、わたしたちと出会うために、再び来られます。罪と死と悪の力が支配する「闇の空間」をつんざいて、わたしたちのところに来られます。主の手で引き上げられたわたしたちは、罪と混乱の真っただ中、すなわち「空中で」、主と出会うのです。ここに希望があります。

今、わたしたちが生きている世界は、言葉に表せない苦悩を抱えています。恐れと闇に閉ざされています。しかし、暗いこの空間は、まもなく救い主キリストと出会う場所、「恵みの空」へと変えられていきます。わたしたちの神が、すべてを新しくしてくださるのです。

わたしたちの神、主イエス・キリストと出会う備えをいたしましょう。

2020年11月15日 聖霊降臨節 第25主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師