トピックス

新しいこと

イザヤ書42章5~9節、ルカによる福音書2章29~32節
お知らせ
主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

新しいこと

12月25日から降誕節、主の降誕の光の中で、新しい年に向かいます。

5:「主である神はこう言われる。神は天地を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる。」
ここに預言者イザヤは、天地創造を語ります。この世界は、神の御手によって創造され、広げられた。人間は、神に命の息を吹き入れられ、神の霊によって人は生きるようになったのです。「わたしは天地の造り主、全能の父なる神を信じます」(使徒信条)

天地創造の神を創造主として、天の父として信じることは、キリスト者に取って信仰の基本であり当たり前のことです。しかし、わたしたちは、しばしば信仰の基本を忘れるのです。イザヤは言います。神の創造の業は、世界を広げ、わたしたちの将来を広げてくださる。それなのに、わたしたちは、人間の目線で世界も、自分の人生をも狭くして来たのではないでしょうか。

この年、感染症が瞬く間に拡がって、世界中に影響がありました。わたしたちは、ウィルスに支配されたように錯覚してしまいそうです。「コロナに支配されるな」と、誰かが、テレビで言っていました。この言葉から、わたしたちはコロナをはじめ色々な心配事に心が支配されて、神を忘れているのだと。

神を離れた人の心は偏狭になります。現代のわたしたちは、文明を発達させ便利な生活を手に入れ、ネットを通じて世界を被遂げてきたつもりです。しかし、実際のわたしたちは、様々な偏見に支配されています。ネットの普及によって人々は、世界を拡げるどころか、個人情報の拡散を恐れたり、互いを見張りあっているかのような世の中の風潮に、萎縮しています。

神の支配を忘れた人々は、偶像を心に刻むのです。「偶像を形づくるものは皆、無力で彼らが慕うものも 役に立たない」(イザヤ44章9)。偶像は頼りにならないと知っているはずなのに、それに縋ってしまう。わたしたちが本当に頼るべき方は、天地を造られた主のみです。

「初めに、神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1章1~2節)。天地創造の業が始まる前は、地上は混沌と闇だけがあふれていました。闇の世界のなかで神の業が始まったのです。「光あれ」神の最初の御言葉によって世界も、わたしたちの人生も始まったのです。

6:「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくりあなたを立てた」。これは、アブラハムの契約を思わせます。神に呼ばれる前のアブラハムは、滅び行く一アラム人にすぎませんでした。アブラハムは、神の呼びかけに応えてイスラエルの父祖、信仰の父とされました。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12章3)。アブラハムの人生は、表層的に見ればカナンの土地をさまよい歩いて過ごしたにすぎません。しかし、主の呼びかけに応えたアブラハムは、決して唯のさまよう人ではありません。彼は、イエスキリストの系図の筆頭に名を記しました。滅び行く筈のアブラハムが、神の契約に入ることよって、永遠に神の前に生きるものへと変えられたのです。「異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」(ルカ2章32)。アブラハムの世界は、神によって広げられのです。

7:「見ることの出来ない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人々をその牢獄から救い出すために」これは、バビロン捕囚となったイスラエルの解放であって、現代のわたしたちには関わりのないことなのでしょうか。見えない人が見えるようになる奇跡は、単に肉体の視力の回復のことでしょうか。キリストは、公の生涯で見えない人の目を開くなど、いやしの奇跡をおこなっています。地上のキリストによる奇跡は、すべて神の栄光が現れるためです。

見えない人とは、わたしたちのこと、わたしたちは、目があっても、神様についても救いについても肝心のことが見えていないのです。「それを食べると、目が開け、神のように…」(創世記3章5)。蛇:誘惑する者が、神に背けば目が開かれると唆した。わたしたちは、自ら誘惑に乗りました。その結果、わたしたちは、神の支配下にいることが赦されない者となったのです。人間がエデンの園から追放されたとはそういうことです。神に頼らなくなったわたしは罪の牢獄に捕らわれた人です。自分の狭い視野に捕らわれて、神を知らず、偶像に頼ったり、人間を神のように祭り上げるのです。罪の牢獄に捕らえられ、自分では決して抜け出せない、それが我々罪人の現実です。罪に捕らわれたわたしたちを、救うために神の御子が人となってお生まれになった。それがクリスマスです。キリストは、罪の牢獄に滅び行くわたしたちの為に生まれたのです。

8:「わたしは主、これがわたしの名、わたしは栄光を他の神に渡さず、わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」。主は、イエス・キリストです。この方は天地創造の前から神と共におられ神に等しい栄光を持っておられました。主イエスは、わたしたちのため栄光の座を捨てて人間の蘇我建て世に現れました。このイエス・キリストを通して、神は御自身の栄光を表したのです。神はその栄光を、キリストの苦難を通し現わしたのです。人々は、わたしたちのためにお生まれになった主イエスを歓迎しませんでした。宿屋には、幼子イエスを迎える場所はなく主は飼い葉桶に布にくるまって寝かされていました。主イエスは、その生涯の終わりに捕らえられ、不当な裁きを受けて命を取られました。苦しむ主イエスを見て人々は思いました。この人は罪を犯したから、神の裁きを受けてこのような目にあっているのだと。主は、全ての人々から見捨てられ、憎まれ、蔑まれながら命を取られたのです。しかし、わたしたちが十字架にかけた主イエスを神は、主、メシアとされました。神の栄光と誉れは主イエスの十字架において現れたのです。

「新しいことをわたしは告げよう。」新しいこと、それはキリストを通して現れた神の業です。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5章17)。キリストが、わたしたちの世界と人生を新たにし、広げてくださいます。主イエスがわたしたちを神の子として新しい創造に与らせてくださるように祈り、願っていきましょう。

2020年12月27日 降誕節 第1主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師