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主の来られるとき

エゼキエル書36章25~29節、テサロニケの信徒への手紙一5章23~28節
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主の来られるとき

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。一年間、わたしたちを導いたテサロニケの信徒への手紙一も、とうとう終わりにきました。

この手紙をしめくくるにあたってパウロは、わたしたち一人ひとり、そして教会のために、祈りをささげています。この手紙全体の最後を飾るのにふさわしい、大いなる祈りです。三つの祈りが、「平和の神」にむかって、ささげられています。

ひとつめ、「平和の神御自身が」、「あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」。この手紙を書いたあと、パウロは、ローマやコリントやフィリピなど、たくさんの教会に宛てて手紙を書き送るようになります。それらの手紙の書き出しには、必ずといっていいくらい、「聖なる者」という呼びかけが、信仰共同体である教会に向けてなされています。たとえばコリントの信徒への手紙一の初めでは、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」(コリント一1章2)。そうあります。

聖霊によって、信仰へと招かれ、救いに召されているわたしたちは、キリスト・イエスによって、すでに「聖なる者」です。キリストを信じて洗礼を受けたときから、聖霊によって、すでに神の子の身分を与えられ、聖なる者とされています。

ただ、洗礼を受けた瞬間、もうすでに、罪など全くない神の子、キリストと等しい人になったかといえば、まだそうなってはいません。キリストが十字架で流したあの血潮によって、わたしたちはもうすでに「罪を赦されて」います。確かに赦されています。しかし赦された今も、わたしたちの心や体、精神には、罪が染みついています。罪の中に生まれ、罪を悪いとも思わず、長い歴史の中を、罪を生きてきたのです。無理もありません。神を信じ、キリストの犠牲の力で赦されていながら、罪と悪から離れられないでいます。このため神は、キリストの血と聖霊の力によって、わたしたち神の民を清めようとなさるのです。

ちょうど旧約の預言者エゼキエルを通して語られたように。神は御自身の名を御自身によって聖なるものとされます。ほんとうなら、神が神となられるとき、罪に生きるわたしたちは、滅ぶべき存在でした。しかし神は、御自身の名を聖とされるとき、わたしたち神の民を罪から救い、清めます。石のようなかたくなな心を打ち砕き、氷のような心を、キリストの犠牲の愛で溶かしました。そして、血の通った肉の心を与えられたのです。エゼキエルの預言は、イエス・キリストの十字架によって、わたしたちの内に実現されています。

キリストの民であるわたしたちは、もうすでに、罪から洗い清められています。聖なる者として新しく生まれ、聖なる歩みをすでに始めているのです。自分たちの力によってではありません。神の赦しの力が、キリストの恵みと聖霊の注ぎによって、わたしたちを聖なる者となし、これからも歩ませてくださいます。手紙の終わりにパウロが祈っているのは、このことです。神の赦しと招きがあればこそ、聖なる者としての歩みをわたしたちはこうして始めることができました。神が始めさせてくださった歩みを、これからも続けなさい。折が良くても悪くても、聖なる者として歩み続けなさい。「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないもの」として、あなたがたの歩みを、平和の神御自身が守ってくださるように。そして、主が再び来られるときに、「非のうちどころのないもの」にしてくださいますように。そうパウロは祈るのです。

お気づきのように、「何一つ欠けたところのない」、「非のうちどころのない」こそ、キリストにかたどって新しく造られた「神の子ども」、「聖なる者たち」のことです。

たとえ今、どれほどわたしたちが迷いや疑いにとらわれていたとしても。今このとき、主を喜び、主に感謝することがむずかしくとも。主が来られるとき、平和の神御自身が、わたしたちを、完全な聖なる者へと新たに造り変えてくださるのです。

今わたしたちは、世界中の人々と共に、困難を極めた毎日を送っています。わたしたちの一日一日は、多くのつまづきに満ちているかもしれません。たとえ、自分の罪に打ちのめされる日々と送らざるを得ないとしても。その一日一日を通して、天の父は、わたしたちを「聖なる者」「何一つかけたところがなく」「非のうちどころのないもの」として導き、養い、育んでくださるのです。

これは神様だからこそできることです。信仰者であろうが、人間にはできません。しかし人にはできなくても、神にはできます。神にできないことは、何一つありません。

この手紙を祈りでしめくくろうとしたパウロは、祈りをささげたあと、さらに三つの勧めをして、この手紙を閉じます。「わたしのためにも祈ってください」。パウロは教会の人たちに、伝道者・牧師のためにも祈るよう、求めました。なぜなら伝道者の務めは、神の恵みの力なしには、できないものだからです。祈りをしない人は、神の力を知らないのです。パウロの働きは、彼が偉大な信仰者また伝道者だったからではありません。パウロを聖なる大きな務めのために用いた神御自身にこそ、すべての力の源があります。祈ることを通して、だれもが、伝道や牧会という神の業に参加することができるのです。

次にパウロは、兄弟姉妹たちが、平和のあいさつをもって、互いに愛し合うことを求めます。教会が、神との平和に生き、互いに赦し合い、支え合っているとき、神の恵みがそこに現れるからです。わたしたちの教会の中にも、神との平和、わたしたち同志の平和があふれるよう願います。それこそが、何ものにもまさって、伝道の力となるからです。

これらはどれも、教会とわたしたちが、神の御言葉にしっかり根差していくことによって、達成されます。「この手紙」、すなわち神の言葉を、教会中のあらゆる兄弟姉妹たちに「読んで聞かせなさい」。神の言葉の説教が、何の妨げもなく準備され、宣べ伝えられるように。教会はそのために祈り仕える必要があります。そしてこの言葉に忠実であろうとしたいのなら、御言葉を聞いただけで終わせないことです。御言葉を聴いたなら、愛する家族や友達に、キリストのことを「読んで聞かせる」のです。このことは、主イエス・キリストの名によって、今日も教会に「強く命じられて」います。

自分のためだけでなく、だれかのために「祈り」。神のもとで互いに平和に暮らす。そして御言葉を「読んで聞かせる」ことで、聖なる人になりなさい。そうなれるように、主イエス・キリストから、あなたがたの上に、いつも恵みが注がれています。今このときも、そしてこれからも、主が来られるときまで、神の恵みが尽きることはありません。

2021年1月3日 降誕節 第2主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師