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御言葉の再発見

ネヘミヤ記8章1~3節、テモテへの手紙二3章14~17節
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御言葉の再発見

エズラ記、ネヘミヤ記は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの復興がいかに成し遂げられたのか書かれています。

ネヘミヤは、当時ペルシャ王アルタクセルクスの献酌官でした。献酌官とは王の毒味役で、何時も王の側に居るため相談役になることもあります。

ネヘミヤのもとにエルサレムの現状が知らされました。「捕囚の生き残りで、この州(エルサレム)に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ城門は焼け落ちたままです。」(ネヘミヤ1章3節、)。ネヘミヤは、それを聞いて打ちのめされ、居ても立っても居られません。ネヘミヤは、王に願い出てエルサレムに帰還しました。

エルサレムについたネヘミヤは、エルサレムの現状を見ました。想像以上に荒廃したエルサレムと、意気消沈しているイスラエルの人々の有り様を見ました。彼は、ユダヤの指導者達を集めてこう言いました。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない」(ネヘミヤ2章17)。エルサレムがバビロンの訓対に荒らされて、もう七十年ほども建っているのに。崩され焼け落ちたままの城壁・城門を見る度にユダヤの人々は、どれほど恥ずかしかったか、惨めであったか。そんな、思いがネヘミヤにも伝わりました。だからこそ、一緒にエルサレムを建て直そうとネヘミヤは皆を励ましたのです。ユダヤの人々も力を合わせエルサレムの城壁と町の立て直しにかかったのです。

ただし城壁の修復は、決して簡単にはいきませんでした。近隣の住民や有力者達の反対、様々な妨害にあいました。しかし、主の守りの中でユダヤの人々は城壁を建て直しをすることができたのです。城壁は五十二日かかって、エルルの月、完成しました(ネヘミヤ6章15)。

「第七の月となり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった」第七の月は、イスラエルにとって大事な祭儀が集中する月です。「第七の月の一日は安息の日として、…聖なる集会の日としなさい。第七の月の十日は贖罪日である。(27節)…第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる」(レビ記23章24~34)。特に仮庵の祭りは、主がイスラエルを奴隷の国エジプトから導き出したこと、主がイスラエルを仮庵に住ませたことを思い起こすための祭りです。出エジプトの恵みを覚えるための祭儀です。この祭儀は、イスラエルの中で長いこと忘れられてきました。出エジプトの恵みを忘れた結果イスラエルは、捕囚となりました。だから、主の恵みの中に生きていた本来のイスラエルを取り戻すために。民は一人の人のようになって集まっていたのです。

ここにエズラは、モーセの律法の書を人々の前で読み上げるためにここに来ていました。この人は、どんな人だったのでしょうか。彼はペルシャ王の書記官でネヘミヤより早くエルサレムに帰還していました。彼もエルサレムの改革とエルサレム神殿再建のために貢献した人です。「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した。イスラエルに対する主の戒めと掟の言葉に精通した、祭司であり書記官であるエズラにアルタクセルクス王は親書を送った」(エズラ記7章7~11)。エズラは、祭司で神の律法御言葉に精通した人であり、御言葉を民に教えることに専念した人です。「祭司エズラは、律法を会衆の前に持ってきた。そこには男も女も、聞いて理解することの出来る年齢に達した者は皆いた」(ネヘミヤ8章2節)。主の言葉は成人男子だけでなく女性も子供達も、御言葉を聞いて理解出来る人は皆ここに来ていました。民は主にあうためにここに来ていました。目に見えない主にあうことは、主の御言葉を聞くことによって可能なのです。

ですから主は、何時も主の御言葉を聞き続けるようにイスラエルに命じておられるのです。「仮庵祭に、主の選ばれる場所にあなたの神、主の御顔を拝するために全イスラエルが集まるとき、あなたはこの律法を全イスラエルの前で読み聞かせねばならない。民を男も女も子供も町に寄留する者たちも集めなさい。彼らが聞いて学び、あなたたちの神、主を畏れ、律法の言葉をすべて忠実に守るためであり、これをまだ知らない彼らの子供達も聞いて学び、あなたたちがヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、彼らも生きている限り、あなたたちの神、主を畏れるようになるためである」(申命記31章10~13)。主を畏れることは知恵のはじめです。その知恵は主の言葉を聞くことによってしか得られません。

礼拝で全員集まるときだけでなく家庭でも「子供達に繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更にこれをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6~9)。神の言葉は子供には難しいという声もあります。しかし主は「まだ知らない彼らの子供達も聞いて学び」なさいといわれているのです。わたしたち自身が御言葉を聞き続け、学び、次の世代に教え伝えることによって信仰継承がなるのです。

約束の地に入って自分たちの土地を獲得し生活が安定すると、イスラエルの中で主の律法は次第に忘れ去られていきました。神の言葉を忘れ去ったから、イスラエルは捕囚となったのです。律法が読まれ解き明かされたとき人々は自分たちの罪を思いました。「レビ人が、その律法を民に説明した…彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した」(ネヘミヤ記8章7~8)。主の言葉を聞きその意味が明らかにされた時、聞いていた人々は、思いました。自分たちは、いかに神に背いてきたのか。自分たちは罪深く、かたくなな民であったのに、主がいかに慈しみ深くイスラエルを導いてこられたのかを、ことごとく知らされました。自分たちが捕囚から帰って来ることが出来たのも、すべて神の恵みによることだったのです。これを知ってイスラエルは罪を告白し悔いあらために導かれたのです。

目に見える神殿、城壁、軍隊の力や財力がイスラエルを守って来たのではありません。イスラエルを本当に守ってきたのは主御自身です。イスラエルがイスラエルらしくあるためには、見えるものに頼るのではなく、主の御言葉によって建つことです。祭司、レビ人、王や指導者達だけでなく、全イスラエルが神の言葉に聞いてしたがった時イスラエルが復興されたのです。

教会が教会らしくあることも、主の御言葉に親しむことによります。幼い頃から御言葉に親しんできたテモテがパウロの弟子となって共に働くことが出来たのも決して偶然ではありません。わたしたち教会は御言葉を聞くだけでなく、御言葉を聞いて行うことによって、本当に教会らしく、本当に神の民にふさわしくなれるのです。

2021年1月17日 降誕節 第4主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師