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罪の告白
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罪の告白
約百年ぶりの律法朗読とヨシュアの時代以来の仮庵の祭りが祝われました。それがイスラエルの暦の7の月の第一日と第二日の出来事でした。再びイスラエルが集まっていました。その目的は何でしょうか。
ネヘミヤ9章1~3節「その月の24日にイスラエルの人々は集まって断食し、荒れ布をまとい、土をその身に振りかけた。イスラエルの血筋のものは異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪過を告白した。彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。」罪の告白の為に、人々は集まっていたのです。
これは、イスラエルの共同の祈りです。イスラエルの歴史、自分たちの罪の歴史を告白し、罪の赦しを求める祈りです。「とこしえより、とこしえにいたるまで、栄光ある御名が賛美されますように」
「あなたこそ、主なる神、アブラムを選んで、カルデヤのウルから導き出し、名をアブラハムとされた」(7節)。アブラハムの選び、それが、イスラエルの始まりでした。
神は、イスラエルを霊肉ともに養ってくださいました「あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え、口からマナを取り上げることなく、乾けば水を与えられた」(20節)。彼らを導くための雲の柱、費の柱で導き続けました。荒れ野であっても、イスラエルの衣服は擦り切れず、足も腫れなかった。荒れ野で四十年の旅したイスラエルを主が守られました。
「…堅固な町々、肥沃な土地を…すべての良き物に満ちた家、貯水池、ぶどう畑、オリーブと果樹の園を手に入れた。」(25節)。主は、アブラハムへの約束を守りイスラエルを約束の地に導き入れました。「彼らは食べて飽き、太り、大きな恵みを受け、満足して暮らした」(25節)。エジプトの妨害、イスラエルの不信仰、荒れ野の試練があったにもかかわらず、イスラエルの民は約束の地に入ってそこに住む事が出来ました。神がアブラハムへの約束されたこと、神の御心はことごとくなったのです。荒れ野の試練が終わり、豊かな土地に住み安定したイスラエルは信仰も安定したのでしょうか。
「しかし、彼らはあなたに背き、反逆し あなたの律法を顧みず 回心を説くあなたの預言者達を殺し、背信の大罪を犯した。」(26節)。豊かになった途端に人々は主に背いたのです。主の律法を忘れ、カナン人たちの拝んでいる偶像神々(バアルやアシュトレトなど)を拝むようになりました。それを諫める者たちを殺しました。当然、神は怒ります。
「あなたは彼らを敵の手に渡し 彼らを苦しめられた。」(27節)。苦境にたたされた人々は、助けを求め叫びました。「彼らが苦難の中から叫び声をあげると あなたは天にあってそれを聞き豊かな憐れみを持って、次々と救い手を送り苦しめる者の手から救ってくださった。しかし、平穏になると彼らは再び御前に悪を行ったので あなたは彼らを敵の手に任せ その支配下に落とされた。彼らが再び叫び声をあげると、あなたは天にあってそれを聞き豊かな憐れみをもって彼らを救い出された」(27~28節)。イスラエルは、苦しくなると主に助けを求め、平和になって安心すると主を忘れ、またしても人々は主に背き、罪を犯す。苦境に陥ると、また人々は主に助けを求め叫ぶ。その繰り返しでした。イスラエルが何度も罪を重ねても懲りない、主は彼らの苦しみの声を聞く度に憐れに思い助けて来られた。これが、イスラエルが約束の土地に入ってから、士師達の時代、王国の時代まで繰り返されてきたのです。
「律法に立ち帰るようにと あなたは彼らに勧められた」預言者達を通して、あるいは、律法を熱心に教えた王もいました。でも…
「彼らは傲慢になり、ご命令に耳を貸さず、あなたの法に背いた。」神が何度手を差し伸べても人々は傲慢であったのです。「これを守って命を得る筈であった」。神の律法、戒めと掟と法は人々を罰するためではなく、命を与え幸いを与えるためです。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20章6)。しかし、人々は「かたくなになり 聞き従おうとはしなかった。」それでも神は「長い年月あなたは忍耐し あなたの霊(聖霊)を送り、預言者によって勧められたが彼らは耳を貸さなかった…」
イスラエルが約束の地、乳と蜜の流れる豊かな地から追われたのは、不信仰の故でした。イスラエルは、今もなお苦境の中にありました「わたしたち自身も、家畜も 支配者の意のままにあしらわれ…わたしたちは大いなる苦境の中にいるのです」(37)。
イスラエルの悩みは、人類共通の悩みです。もともと我々人間は、神が御自身にかたどって造られたものたちです。神の造られたエデンの園が。わたしたち本来の居場所魂の故郷です。そこで、永遠に神様を喜びたたえて生きるはずだったのです。わたしたちは…、罪を犯して、神の園から追放されたのです。全人類が本当の故郷を失った者たちなのです。故郷を失った人類は歴史の中で、神に対して罪を重ねてきました。イスラエルの捕囚の歴史はわたしたち自身のものでもあります。神に背き、反抗し続けた、わたしたちだから神に断罪されても反論出来ません。「しかし、憐れみ深いあなたは、彼らを(イスラエルも異邦人のわたしたちのことも)滅ぼし尽くそうとはなさらず、見捨てようとはなさらなかった。」。放蕩息子の帰りを待ちつづける父のように、神はわたしたちの悔い改めを待ってくださる。「恵みに満ち、憐れみ深い(父)神」わたしたちの罪が赦される為に御子をくださるほどにわたしたちを愛しておられます。御子イエスが来られたのは、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。罪の告白によってイスラエルが立ち上がりました。わたしたちもまた悔い改めと感謝から新しい命に生きて行きましょう。「罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの手紙一1章9節)。
2021年2月14日 降誕節 第8主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師