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収穫の主に願おう

(ゼカリヤ書8章9~13節、マタイによる福音書9章35~38節)
主日礼拝説教

「収穫の主に願おう」

あらゆる町や村々を、主イエスはめぐり歩きました。失われた羊たちを見つけるため、迷える小羊を取り戻すためです。そのためキリストは、村や町を訪れては、み言葉を教え、神の国の福音を宣べ伝えました。病気や患いの人びとを癒しました。打ちひしがれている人びとを見て、心の底から憐み、愛のまなざしを注がれました。人びとへの憐みから、主イエスは弟子たちにお語りになりました。今がいったいどのような時であるのか。わたしたちは今、何をなすべきなのかを、お語りになりました。そして手を差し伸べていかれます。
何をなすべきか、主イエスが語ったのは、「祈りなさい」でした。「収穫は多いが働き手が少ない。だから、…働き手を送ってくださるように、収穫の主に(祈り)願いなさい」。
収穫が少ない、とはキリストはおっしゃいません。収穫が少ないから、収穫を増し加えてくださるように祈りなさい、とは言いません。「収穫は多い」、「だから収穫のために働き手を送ってもらいなさい」。そうおっしゃっています。わたしたちと主イエスと、ここがちがうのです。伝道というと、わたしたちは、うまくいかない、収穫が少ないと嘆いてばかりいるように思います。だから収穫を増し加えたまえと、つい祈りたくなるのです。
でも、キリストはちがいました。キリストの目には、たくさんの収穫が見えていたのです。すぐ目の前にいる人びとのことです。弱り果て、打ちひしがれている大勢の人びとです。身近にいる人びとです。この人びとこそ、神が約束された人びとである。豊かな実りである。キリストのもとへ、救いへとこれから神に導かれようとしている大勢の人びと。主がご覧になったとおり、神が備えた人びとは、昔も今も、たくさんいるのです。 だから、なげくのではなく祈れ。神を信じて祈りなさい。キリストはわたしたちに、そう命じています。数多くの実りが、この世界に、わたしたちの身近に、神の手ですでに用意されています。神のご計画と約束の中で、わたしたちは伝道へと遣わされているのです。収穫の主を信頼して、信じて祈るように。キリストのあとに続き、この方と共に行動するように、わたしたち教会は命じられ、招かれています。 「収穫は多い」。キリストは確信をもって、そうおっしゃっています。この確信は、いったいどこから来るのでしょうか。旧約聖書の中には、今朝読まれたような御言葉がいくつもあります。ここには、将来への確かな約束が、預言者を通して、神から示されています。
預言者ゼカリヤは、イスラエルに回復の希望を語り聞かせました。神を信じなかったため、国民全体がバビロンという国連れ去られ、捕虜にされた時代です。神に礼拝をささげたエルサレムの神殿も外国の軍隊の手で壊され、国全体が壊滅的な打撃を受けました。神の民イスラエルにとって、最も恐ろしい危機、また恥辱のときを迎えています。 この時代に、預言者は人びとに語りつづけました。「勇気を出しなさい。恐れてはならない」。「あなたたちは近ごろ、これらの言葉を…聞いているではないか」。「主の家である神殿の基礎が(再び)置かれ、再建が始まった」。あなたたちが神に立ち帰る前には、どれほど努力し働いても、何の実りも報いもなかった。しかし今からは、これまでとはちがう。「平和の種がまかれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす」(ゼカリヤ8章12)。「イスラエルの家よ、かつてあなたがたは(不信仰と罪のゆえに)、呪いとなったが、今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる」。だから「恐れてはならない。勇気を出すがよい。まことに万軍の主はこう言われる」(13節)。
あれから数百年経った今、主キリストが、神の約束を信じて語っています。かつて預言者が語ったよりももっと力強く、キリストは神の約束と祝福を確信し、語っておられるのです。たとえ目の前の現実がどうあろうとも、人びとの心・わたしたちの心がどうあっても、キリストは、神の約束を決して疑わず、人びとを見捨てません。それどころか、望みを失い、打ちひしがれている人びとを見て、「収穫が多い」とキリストはおっしゃるのです。
だれよりもわたしたちのことを深く知っておられるキリストが、わたしたちを憐み愛し、わたしたちを救うため行動を起こします。このあと10章に入ると、キリスト自ら12人の弟子を選び、伝道へと遣わします。この行動を始めるのに先立って、キリストが弟子たちに命じられたのが、まず祈ることだったのです。主の行動の始めは祈ること。しかも、「収穫をもたらす主に信頼して」、弟子たちと共に、神に祈ることでした。 たくさんの収穫、実りを、神様がすでに用意してくださっています。ただ、収穫を刈り入れる働き人が少ないだけです。だから、「たくさんの働き人を送ってもらいなさい。収穫の主に、祈り願おう」。わたしたちも、キリストが抱いた神への確信をわたし自身のものとなし、主に命じられるまま、信じて祈る者となりたいのです。
福音書をみると、祈るイエス様の姿が、くりかえし出てきます。「目を覚まして祈りなさい」、「喜び、祈り、感謝をささげなさい」。これらの御言葉が、祈ることへとわたしたちを励まします。聖書は祈ることを大切にして、教えています。キリストが祈りの方だったからです。教会は、イエス・キリストにならって、祈ることをほんとうに大切にしてきました。キリスト教の信仰とは、祈る信仰だ。そういってもよいでしょう。 祈ることを大切にしてこられたキリストですが、でもこういう言葉で祈りなさいと、具体的に教えている場面は決して多くありません。そういう祈りは二つ、ないし三つだけです。ひとつは主の祈りです。「天にまします、われらの父よ」。そう呼びかけ、こういう言葉で祈りなさい、と教えました。それともう一つが、実にこの祈りなのです。「収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫の主に、…働き手を送ってくださるよう、祈り願いなさい」。この祈りが、どれほど大切で、特別な祈りかがわかります。
「収穫のために、働き手を送ってください。そう主に祈りなさい」。主の祈りと共に、この祈りが、教会を生み出し、形づくってきました。事実、これまで世界中の教会で、数えきれないほどのクリスチャンたちが、今もこの祈りをささげています。この祈りを収穫の主が聞いてくださったからこそ、わたしたちの教会もここに立っています。静岡草深教会は、今から126年前、アメリカのメソジスト・プロテスタント教会から送られた宣教師の伝道によって、この地に建てられました。名古屋から静岡へと伝道が繰り広げられた実り、それがわたしたちです。この祈りに促され、この祈りに従った人びとの働きを、主が豊かに祝福してくださいました。その上に、わたしたちの教会は建てられています。世界中のどの教会も、主が命じられた祈りによって立てられ、はぐくまれてきたのです。 日本は明治時代に入って、海外から、大勢の宣教師が送られてきました。福音伝道が盛んに行われ、多くの人が洗礼を受け、たくさんの教会が産声を上げました。当時、アメリカでは、いくつもの教会・教団が、日本伝道・アジア伝道を志して、収穫の主に祈りをささげていました。「働き人を与えてください」と、どれだけのキリスト者が、この祈りをささげていたかわかりません。
その時代に、こういうことがありました。今も横浜にあるキリスト教主義学校の成り立ちの物語です。明治の初め、アメリカのあるプロテスタント教会・教団が、日本に女子のための学校を建てよう。そして伝道しようと志しました。その教団は、一人の婦人牧師を責任者に選びました。日本におくる婦人宣教師をだれにするか。この人が、何人もの候補者・志願者と面接を繰り返し、その教育・訓練にあたることになりました。 面接に来たどの人も信仰深く、熱意があり、独学で日本語を勉強してきた人もいたそうです。でも、この責任者の牧師の目は、どの人も帯に短しタスキに長しで、だれにしたらよいか、決めかねていたそうです。「収穫は多いが働き手が少ない」。神様、どうか日本に送る宣教師を与えてください。だれがあなたの御心にかなう働き手なのか、教えてください。来る日も来る日もそう祈って、毎日、面接を繰り返しました。それでも、「この人だ!」と確信をもてる人に巡り合うことはできませんでした。さらに心をこめて祈りました。「神様、どうか、日本であなたのために仕える働き人を与えてください」。いよいよ切に祈り続けていると、ある日、神様から答えが返ってきました。神の答えは、「あなただ。日本に宣教にいくのはあなたなのだ。わたしがあなたを選んだ、あなたを日本に遣わす」。「わたしに従ってきなさい」。 主の声を聴いて、この方はすぐに決心しました。荷物をまとめて船に乗り、日本へ旅立ちます。やがて横浜の地に降り立ち、数年後には、キリストの御言葉と愛に根差す女子学園が誕生しました。この女子学園には普通科だけでなく神学科、日本人の婦人牧師を養成する神学科も備えられていました。 「収穫は多い、だが働き手が少ない。だから収穫の主に願って、収穫のために働き人を送ってくださるよう、神に祈りなさい」。
この祈りは、ただの神頼みの祈りなどでは、ありません。飼い主のいない羊のように、打ちひしがれている人びとをその目で見て、深く憐れまれた、主イエス・キリストの祈りです。ただ憐みをかけるだけでなく、この羊たちをご自分の羊となすために、主自ら十字架にかかり命を捨てる。命がけで行動された主イエス・キリストの祈りです。だからこそ、この祈りには力があります。この祈りが、多くの神学生・伝道者・牧師たちを、これまで生み出してきました。それだけにとどまりません。この祈りを信じてささげることにより、わたしたち自身も、主が命じられるまま、主に仕える働き人とされていくのです。 かつて預言者は、語りました。「恐れるな。勇気を出しなさい」と。打ちひしがれたイスラエルの人びとに、くりかえし、主の言葉を語り聞かせました。「勇気を出しなさい」、文字通りには、「すべての手が強くあれ」という意味です。「すべての手が強くあれ」。この言葉で預言者は、主の民をなぐさめ、ふるい立たせました。
「恐れるな」。「すべての手が強くあれ」。主イエス・キリストがその目で見ていたたくさんの収穫が、今も、わたしたちの目の前に広がっています。収穫の主を信じて祈るなら、わたしたちの手、教会という手の働きを、天の父が清め、強め、祝福してくださるのです。    

(説教者:堀地正弘牧師)