コラム
死に至るまで忠実であれ
飯田啓子
7月12日に誕生日を迎えました。
事前準備と事後ケアを心がけるアラ還になりました。嬉しくもあり驚きでもあり。実に不思議な気分です。
誕生日前後に二つのことを経験しました。一つは6月30日に礼拝奉仕者として迎えた神学生を通して、吉祥寺教会と故・竹森満佐一牧師との対話です。
吉祥寺教会・竹森満佐一牧師。この言葉にピンと来る方も多いと思います。礼拝開始と同時に玄関扉が閉められて遅刻者は入れない。礼拝が終われば百貨店の角(教会から徒歩3分ほど)を曲がるまで口を開かない。教会は主日礼拝だけで祈祷会や夕礼拝は無し。長老会も一時間以内には終わる等々のエピソードがあります。
私は神学生時代に「召命無き者は去れ」のエピソードを教えられました。神学校で教鞭をとっておられた当時、廊下ですれ違う神学生に「召命無き者は去れ」と声を掛ける。この言葉の前に退学した神学生もいたそうですが、「文句があるなら聖霊に言ってください」との答えが与えられた図太い牧師が育ちました。
この数々のエピソードは“集中する”ことを教えています。信仰者としてキリストに集中して生活をする。加齢と共に集中力が散漫になることを考えると、一点に集中する。福音に活かされている召命と献身です。
もう一つは年下の先輩牧師の葬儀礼拝。ある同級生が彼の死を「突然の病から余命を遥かに超えて伝道者、牧会者の生涯を走り終えた」と評していた通り、走り終えた先輩でした。
礼拝で三箇所の御言葉が朗読されました。一つは名前の由来になった御言葉。一つは御言葉の役者(えきしゃ)としての彼を養った御言葉。一つは信仰者としての彼を養った御言葉。神の言によって日々新しくされながら走っていた姿が思い起こされました。そしてそれは最後、いよいよ死の宣告を我が子と一緒に聴いた帰り、「お父さんは死ぬのは怖くないの?」と聞かれ、「怖くないよ。だって(いよいよ)神様に会えるんだもん」と答えた点に明らかだと思います。神様に会える。これが信仰の希望です。
来年、60歳還暦を迎えた時に、後輩に委託している“飯田啓子が希望なくして暴走したら止めにきて欲しい”を更新しようと考えています。暴走は止まりません。だからこそ止めを刺して貰わなければならない(十字架が罪に止めを刺したのと同じです)。神様に会える希望よりも、それ以外で暴走し始めてしまいます。何とも惨めな姿です。
後輩は「牧師を引退すべきは案外、聞いてくれそうだけど、免許証返納は絶対に暴れて抵抗するでしょ」と笑っています。私の性格を良く理解してくれていることに安心します。週報や月間予定表のミス、説教下手、加齢による集中力低下等々に気を取られて召命と献身の祈りに集中できず暴走が始まる。召命なき献身と言う暴走。本当に厄介です。
暑さ厳しい季節。それ以上に熱いキリストの霊によって守られますように祈っています。