コラム

真理とは何か

飯田敏勝

 「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)という、印象的な聖句があります。神学生時代からずっと思い巡らしていますが、明確な、自分なりの答えが出ているわけではありません。
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 わたしの趣味の一つに音楽があります。聞くのは元々好きですが、それとは別に演奏をします。リコーダーやオカリナは我流ですが、吹いているうちに何とか物にできるんです(人前では緊張して失敗しますが)。歌は音楽の授業では苦手でしたが、讃美歌との関連で徐々に恥じらいを捨てられました。オルガンやギターを習ったりしましたが、今改めてウクレレに手を出そうとしています。旋律は分かるのですが、和音も把握したいとの思いがあるからです。
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 ただ単純に好きというなら、音楽よりも絵を描くことや折り紙のほうが好きです。しかし、好きなので楽しんでやっているうちに勝手にステップアップしてる気がします。
 何かを追究しようとするとき、わたしの場合は音楽を引き合いに出したほうが的確な気がします。
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 〈真理〉は、単なる〈事実〉とは違います。〈事実〉は、「本当にあったこと」と説明がつきましょう。〈真理〉にもその要素はあります。たとえば学問で、ある研究方法の光を当てたとき確実な答えを得られるような側面です。主体の判断を除いて、客観的な真相を探り出すのです。
 ただ〈真理〉には、主体性も含まねば語れない側面があります。芸術は美を感じる心がなければ味わえませんし、宗教もまたしかりです。冒頭の「真理」も、イエスさまが証ししたもの(ヨハネ18:37)で、教会ではその声を聞きます。その真理を認めていかねば、知り得ない世界があるのです。
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 聖書通読会で、よく「昔こういうことが本当にあったの?」と聞かれます。単なる事実としては、確言できなかったりします。それは、学問としての歴史や考古学の光に照らして、です。
 しかしフィクションであっても、物語の力が人を励ましたりします。聖書に書かれていることが事実とは限らなくても、神さまの契約に基づく愛や救いを語り、イエスさまのことを紹介してくれることは間違いありません。
 その真理を教会は世に伝えます。
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 聖書は金太郎飴的に解釈できません。他の学問の真理も参照しながら、神学によって統合していきます。その探求の姿勢は、音楽に取り組むように右往左往しながらですが、救われた喜びから、聖書の真理が確かであることは確信できます。