

コラム
目を覚ましている

飯田啓子
2月9日司式をしながら、そういえば去年は秋田から引っ越しトラックが来た日だったと思い出す。2月16日の礼拝で池ヶ谷長老が司式をしてくださり、初めて草深の祈祷会:2022年3月31日(木)に出席した時のことを思い出す。初めての祈祷会。朝も夜も奨励は池ヶ谷長老。赴任して3年が過ぎることを実感します。
この合間に秋田を往復しました。走り慣れた高速道路は迷うことはありませんでしたが、記憶にある雪景色とは全く違う。帰路の際に山形経由にして記憶にある地吹雪ドライブをすることが出来ました。赴任して3年が過ぎることを実感します。
1月の定期教会総会以降、2月末までは教区レベルの宿泊を伴う集会が続きます。教区農伝協議会・教区信徒修養会・分区役員研修会などなど。冬に集会が続くことにも慣れました。冠雪した富士山を東海道在来線でのんびり眺めるのも一興です。また由比のあたりで紅白の梅の木を見つけたり、富士山が見えたあたりから強風が押し寄せてくるのも面白い。赴任して3年が過ぎることを実感します。
静岡で目を覚ましている。この事を突き付けられたのは、去年の1月1日に起きた能登半島地震の時です。夕方に発生、津波警報も発令された。すぐさま駆けつける積りでしたが、ふと気が付けばノーマルタイヤしかない。雪道でも凍結路でもなんでも運転することが出来るのはスノータイヤのお陰です。それが無いことに気が付いて出足が止まってしまった。
目を覚ましている意味を考え直させられました。何時でも呼ばれたらそこに出かける。どんな状況下でも、集合場所に行く。早いとか遅いとか、距離は関係ありません。声がする場所に向かうだけです。
その声が本物かどうかを聴き分けていくのも大事な信仰生活です。声を頼りに辿り着いたら違う場所だったということもあります。
倅の幼稚園時代の運動会。同じクラスのお友達にエールを送る。知っている声なら子どもは勢いづけられますが、知らない声を聞くと(なんと)足が止まってしまう。ゴール目前でトップだったのに足を止めて、声の正体を探し始めてしまって、トップの座を譲ってしまった。
目を覚ましているのは本当に難儀なことだと思います。それでも安心して居眠り出来るのは、声の主を知り、そこに行くことを身に着け、何時でも目を覚ますようになっているからでしょう。復活の時に起こされることを知っているからでしょう。難儀だけど面白い。