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初めからあったもの
初めからあったもの
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。―すなわち命の言について」
“初めから”というひとことから、ヨハネ福音書1章1節の「初めに言があった」を思い出すことができます。初めとは、この世が造られる前の永遠のはじまりのことです。神は、この世の歴史が始まる前から独り子キリストと共におられました。御子イエス・キリストは、御父のもとから肉体をとってこの世に来られました。そこから教会は初まっています。わたしたちが、教会はじめから聞いてきたものとは何でしょうか。二つの点があります。
一つは愛の戒めです。「互いに愛し合うこと、これが、あなたがたの初めから聞いている教えだからです。」(ヨハネの手紙一3章11)。キリストは、最後の晩餐の席で弟子たちにいわれました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。二つ目は、反キリストが現れることです。「反キリストが来ると、かねてあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが来ています。これによって終わりの時が来ていると分かります。(彼らはわたしたちから去っていきましたが、もともと、仲間ではなかったのです。)」(ヨハネの手紙一2章18)。キリストに反対する者は、教会の外だけいるわけではありません。教会の中からも反キリストが出てきます。反キリストは、「イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めないものこれこそ反キリストです。(ヨハネの手紙一2章22)、御子を認めないものはだれも御父に結ばれていません。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも、御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」(ヨハネの手紙一2章24)。
「目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とはなんでしょうか?ここで言われているのは、復活のイエス・キリストのことです。キリストは、地上の宣教の生涯の中で、しるしや奇跡を通して、御自分が神から遣わされた方であることを人々に示して来ました。主イエスのなさることを見て、その言葉を聞いて、信じる者と信じない者に分かれました。信じる人々は、イエスに望みをかけていました。しかし、主イエスが逮捕され、十字架にかけられた時には、信じていた人々もイエスに失望しました。あの方がメシアなら、なぜ自分を救うことができないのか、誰にも理解できませんでした。
弟子たちがエルサレムに集まって、話している時にイエスが現れます(ルカ24章35)。弟子たちは、イエスを見てすぐに喜んだでしょうか。弟子たちは恐ろしくなり、自分たちは主イエスの亡霊を見ていると思いました。そう思ったのは、弟子たちが十字架で苦しむ主イエスを見捨てて行った罪の意識のせいかもしれません。そんな彼らにイエスは言われました。「わたしの手や足を見なさい、まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には骨や肉はないがわたしにはそれがある」(ルカ24章39)。
主イエスは、トマスに現れた時も同じことを言われました。「あの方の釘後を見て、その穴に指を入れてみなければ信じない。」とトマスはいいます。主イエスは、トマスに言われた「あなたの指をここにあてて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手をのばし、わたしの脇腹に手を入れなさい」(20章27)。トマスも他の弟子たちもイエスの体や肉や骨に直接触れたかどうかは書いてありません。そこが問題ではありません。イエスを信じて人格的に深いところでイエスと触れていたかどうか、そこが大切なことだからです。
「この命は、現れました。…御父と共にあり、わたしたちに現れた永遠の命をわたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」。
そもそも命は偶然に生まれたのではなく、神から与えられたものです。神に命の息を吹き入れられ、人は生きる者となった(創世記2章7)。アダムとエバに、神は言われました。「園のすべての木から実を取って食べなさい。(命の木から取ることも許されています)。園の中央の“善と悪を知る知識の木からは取って食べるな。食べると必ず死ぬ」(創世記2章17~18)。人間は、神の警告を無視して、取って食べるなと神が言われていた木からとって食べたのです。その時から人間は、神との交わりを失い、命の木への道も失われたのです。わたしたちが神との交わりを捨てたから、人間は死に行くものとなったのです。
わたしたちに本当の命を取り戻せる方、それが父と共におられたキリストです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ福音書11章25)。御子の言葉を聞き、信じ、従うものは、御子によって生きるようになります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きる(永遠の命にいきはじめる)ようになるためです。」(ヨハネの手紙一4章9)。キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父の元に行くことはできない」(ヨハネ福音書14章6)。「御父と共にあった命」とは、イエスのことです。
「初めから聞いていたことを、心に留めなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるなら、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」(ヨハネの手紙一2章24~25)。「わたしたちは、見て証するのです」「御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています」(ヨハネの手紙一2章14)。
「わたしたちの交わりは父と御子イエスとの交わりです。」(3節)。父である神を抜きにした交わりの中に、命はありません。アダムとエバは、神を抜きにした交わりに生きようとした時に死への道を選びました。わたしたちも、神とキリストを抜きにして道を選ぶならアダムとエバと同じ誤りを繰り返すことになります。
この手紙を受け取った信徒たち多くのものは、地上のイエス・キリストにあったことはありません。触れたこともありません。今のわたしたちもまた、直接キリストを見ることはできません。しかし、礼拝と通し、主が定められた聖餐を通して目に見えないキリストの現臨に触れることができます。わたしたちの救いを完成するためキリストが再臨なさいます。「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(黙示録22章14節)。主イエスの血によって、罪を清められ、主イエスによって永遠の命に生きはじめている。それが教会であり、神とキリストの交わりです。
(説教者:堀地敦子牧師)