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御子を待ち望む教会

イザヤ書55章8~11、テサロニケの信徒への手紙一1章2~10
主日礼拝説教

御子を待ち望む教会

「わたしたちは祈りの度に、あなたがたのこと」でいつも、神に感謝せずにはおれません。そうパウロは、テサロニケの教会の人びとに伝えました。なぜなら、教会の人びとが迫害や困難な中でも、信仰・愛・希望をもって歩んでいたからです。

「あなたがたはひどい苦しみ中でも、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに」、いえ、主イエス・キリストに倣う者となった。その地方・地域にある、すべての教会そして信徒たちの模範にさえなっている。このことをパウロは心から喜び、神様に感謝をささげています。目の中に入れても痛くない、自慢の息子そして娘たち、それがテサロニケの教会の人びと、あなたたちなのです。まるで、そう言っているかのようです。

けれどもパウロが、テサロニケの人びとのことでこのように喜んでいるのは、決して相手を持ち上げるためでもなければ、自分たちの働きを誇るためでもありません。確かにパウロもシルワノもテモテも、テサロニケの人びとを多く、キリストへと導きました。自分たちが「どのようにあなたがたのために働いたかは、あなたがたが知っているとおりです」(5節)。けれども、パウロは知っていました。自分たちが困難な中でも、人びとをキリストの救いへ導く働きができたのは、神の力と聖霊の導きによるのです。このことを決して忘れないようにと、5節前半でこう述べています。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ(人の力・人の)言葉によらず、(神の)力と聖霊(の働き)によったからです」。神の恵みの力と聖霊の働きにより、わたしたちが語った言葉を、あなたがたは「聖霊による喜びをもって受け入れた」。罪人にすぎないわたしたちに託された言葉を、あなたがたは神の言葉として信じて受け入れた。そして、父・御子・聖霊への堅い確信をもって、試練の中をあなたがたは生き生きと信仰に歩んでいる。これらはすべて、神の恵みと聖霊の働きによることであり、それ以外にあなたがたが生きる道はなかった。このような救いと信仰に生きるように、あなたがたは生まれる前から「神に愛され、神に選ばれていたのだ」(4節)。パウロは、神の恵みの大きさに圧倒される思いで、わたしたちが救われたことを喜んでいます。

神は生まれる前からわたしたちのことを知っておられ、母の胎内に形作られる前から、わたしたちをキリストのもとへ、救いへと選んでいてくださった。預言者エレミヤにそう語られたのと全く同じ神の恵み、神の選びが、今ここにいるわたしたち一人ひとりの上にも、注がれています。わたしたちが教会へ来れたのも、ここでみ言葉を聞いて信じることができたのも、すべては神の恵みによるのです。生まれる前からわたしたちを救いに定め、選んでくださったからにほかなりません。

この手紙は、「感謝の手紙」と呼ばれます。「神への感謝の手紙」です。パウロが、テサロニケ教会の人びとのことで神に感謝せずにいられないのは、このことのゆえです。すると、パウロがここで神にささげている喜び・感謝は、二千年という時の隔たりを超えて、今ここで、神を礼拝している、わたしたちのことでもあるのではないでしょうか? わたしたちもまた、かつてのテサロニケの人びとと変わらず、偶像礼拝、罪のとりこでした。それが今はこうしてキリストの教会に導かれています。主の御言葉を、喜びをもって受け入れ、救われた恵みを神に感謝しています。そのすべてに先立って、神の恵みと神の選びがありました。

確信をもってパウロが述べているように、わたしたちもまた、神の恵みによって、この世から選び出された一人ひとり、そして教会です。

では、いったい何から救い出され、どこへ救われていくのでしょうか? そのことをパウロは、9~10節でこう語っています。「あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」(9節)。さらにまた「どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったか」(10節)。

テサロニケの町はギリシアの大都市です。教会に集っていたほとんどが、神も聖書も知らない異邦人でした。偽りの神々に頼り、実は頼りにならないものに望みをかけて生きてきました。わたしたちもそうです。かつてのわたしたちは、神から遠く離れ、神を神とあがめて生ることなど、してきませんでした。まことに生ける神を知らなかったために、朽ちていくものを宝と思い、むなしい日々を送っていました。お金や地位や名誉や、あるいは自分、自分の家族さえよければよい。人はどうでもいい。偶像礼拝とは、自分だけを大事に、自分(自分たち)をまるで神のように重んじていく生き方です。この生き方は孤独です。まわりに誰もいなくなります。神と隣人を無視して、自分だけを特別な存在にしてしまうからです。

このような孤独で喜びのない人生から、神様がわたしたちを選び出し、救ってくださいました。わたしたちのために命を惜しまずささげたキリストが、意固地でかたくなな偶像礼拝から、わたしたちを立ち帰らせてくださいました。喜びと感謝をもって神に仕える信仰の世界へと、導き出してくださいました。「生けるまことの神」に仕える喜びを、主キリスト自身が経験し、わたしたちにも味わわせてくださいました。それが十字架の道です。偶像という罪の縛りからわたしたちを解き放ち、自由な神の子とするために。そのためにキリストは、神からもわたしたちからも見捨てられ、孤独の道を行かれました。この孤独の道こそ、キリストにとって、生けるまことの神に仕える喜びと感謝の道そのものだったのです。苦難の道を、キリストは、神への喜び・感謝に生きる道に変えてくださいました。このお姿を見て、わたしたちは悔い改めて、神に立ち帰ることができました。もしキリストが、わたしたち罪人のために死んでくださらなければ、自分の罪に気づき、神に立ち帰ることなど永遠にできなかったでしょう。しかし今や、この方を信じて、わたしたちは罪を赦されています。まことの神に立ち帰ることができました。主が選び取った死の道が、わたしたち信じる者たちにとって、永遠の命の道・救いの道となったのです。

このキリストが、まもなく天からおいでになります。十字架で死なれたキリストを、神が死者の中からよみがえらせ、わたしたちの救い主となさいました。この方こそ、「来るべき神の怒り」から、わたしたちを救ってくださる主イエスです。わたしたちはすでに、この方を信じて救われ、神の国がやって来るのを待ち望んでいます。心から待ち望んでいます。

今日はわたしたち静岡草深教会の創立記念礼拝です。127年目の記念日です。世の中は今、大きな不安と恐れの中にあります。目に見えない恐ろしい敵におびえてもいます。恐れや不安がわたしたちを取り巻いています。

でも、二千年前の、生まれてまもない教会も、そうだったのです。多くの困難の中にありました。迫害や、目に見えない悪の力・罪の誘惑にさらされながら、心を高く上げて主を礼拝し、キリストの恵みにしっかり根をおろしていきました。二千年前、信仰に生き、眠りについたテサロニケの人びとと共に、今この時代を、再び来られる御子キリストを待ち望み、耐え忍ぼうではありませんか。ひどい苦しみの中でも、喜びをもって主の御言葉を受け入れ、主にならう者となっていきたい。そうして、この地域のまわりの教会の希望また模範となる道を、これからも志していきたいのです。

世の終わりに、再び来られる御子を待ち望む。この信仰こそ、迫害や困難の中を、初代教会が力強く生き抜いた原動力であり、秘密です。ただあてどなく待つのではありません。来るのか来ないのか、わからないものを期待し、むなしく待ち続けるのでもありません。主は必ず来られます。わたしたちに完全な救いをもたらすために。御子を待ち望む教会こそ、信仰・愛・希望にあふれる、生きた教会です。

たとえ今がどれほど苦しくとも、苦しみは永遠に続きません。苦しみが、神の国を受け継ぐことはないからです。神の国を受け継ぐのは、わたしたち教会です。われわれを脅かすどんな試みも、次から次に襲いかかる困難も、わたしたちを支配し続けることはできません。この世界を造られたのは、神です。キリストの父である神が、この世界を造り、世の歴史を今も導いておられます。神が、罪と悪に終わりをもたらします。その日、キリストが再び来られて、神の国の扉をわたしたちに開きます。このことを、神がはっきり約束しておられます。「来るべき怒り」から、キリストがあなたがたを救う。必ず救い出すと。あらゆる恐れ、破局を超えて、わたしたちはこの地上を生き続けます。地上で、信仰と愛と希望に生きる教会の道こそ、神の国につながる道です。

教会は二千年の間、世の終わりに再び来られる御子キリストを待ち望んできました。御子が二度目にこられるのは、もう一度、十字架にかかるためではありません。「多くの人の罪を負うために、ただ一度身を献げた」キリストは、「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブライ9章28)。 救い、命、喜びであられる救い主に、栄光がとこしえにありますように。

(説教者:堀地正弘牧師)