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葬りの日のために

申命記15章11節、ヨハネによる福音書12章1~8節
主日礼拝説教

葬りの日のために

主イエスがラザロを復活させました。これを目撃した多くのユダヤ人たちが主イエスを信じました。一方主イエスを殺そうとする人々も行動を開始します。「祭司長達とファリサイ派の人々は最高法院を召集して」(11章47節)主イエスを殺す計画を話し合ったのです。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11章50)。大祭司カイアファは、自分の考えでなく、大祭司であったので神の計画を預め語っていたのです。その日を境に、主イエスはユダヤ人たちの中で公然と出歩くことがなくなりました。荒れ野に近いエフライムの町に身を隠していたのです(11章54)。

一時、隠れておられた主イエスは出てきました。過越祭の六日前、ベタニヤに来られたのです。そこには、主イエスが死人の中からはよみがえらせたあのラザロがいます。

2節:ベタニヤでイエスを夕食に招待した人がおりました。マタイ26章6~13とマルコ14章3~9には、主イエスを招待したのはシモンだといいます。ここには、主イエスを招待した人の名は書いてありません。ラザロの姉妹マルタがこの食事の給仕の役目を務めていました。主イエスが復活させたラザロが、イエスと共に食事の席に着いていました。この夕食会は、兄弟ラザロを死から救ってくださった感謝のために、開かれていたのかもしれません。

3:では、ラザロのもう一人の姉妹マリアは、どうしていたのでしょう。彼女は、突然この席に現れます。

「マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ(約326g)持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐった。」(3節)。彼女のやり方には幾つか印象的なことがあります。一つは、彼女が持ってきたナルドの香油がとても高価な物だったことです。もう一つは、彼女が身を屈めて主イエスの足に香油をぬったことです。ナルドの香油の原料スパイクナードは、オミナエシ科の多年草の植物で高さ15~30㎝位、ヒマラヤの高地に生息する植物で根茎部分が原料として抽出されます。昔からインド人により薬用、香料として使われました。イスラエルにも輸入されましたが原産地から遠いために非常に高価なものでした。300デナリ一年分の労賃に相当する金額以上の価値がありました。

マリアは、高価なナルドの香油を主イエスの足に塗って、髪の毛でぬぐったのです。ナルドの香油の香りが家中に立ちこめていました。

4~5節:その場にい合わせた多くの人が、眉をひそめてマリアに冷たい視線を向けていました。その思いを口にしたのが、イスカリオテのユダです。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って貧しい人に施さなかったのか。」(5節)。彼は早くから、5千人の給食の奇跡の直後には、主イエスを裏切る考えを持ちはじめていました(ヨハネ6章71)。

「彼がこう言ったのは、貧しい人のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた。(=抜き取っていた。)」と聖書は言います。ユダにとって貧しい人たちのことは、マリアを非難する口実に過ぎないのです。彼の様な人は、何時の時代もどこにでもいます。誰かを糾弾するために、弱い人々のことを口実に使う。彼の本当の動機は、貪欲です。貪欲とは、自分に与えられたものでは満足できず、隣人の物を奪い取ってでも欲しがることです。貪欲というのは、我々にとって根の深い問題です。妬み、奪い合い、隣人について陰口を言う、偶像礼拝等、人間の貪欲は、あらゆる罪を生み出してきました。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るのです。そして欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブの手紙1章14~15節)。誰でも自らの力では、貪欲から自由になれません。

「彼女を赦せ、」(7節:直訳)。貪欲に駆られた人間にとって、マリアのような人は赦せないのです。惜しみなく主にすべてを献げるマリアは、ユダにとって赦せないものになっていました。

ユダがマリアを赦せなかったのと同じ様に、カインは、弟のアベルを憎みました。自分よりも正しく、自分よりも信仰深い弟のアベルをカインは殺したのです(創世記4章)。カインは、主から自分の罪を示された悔しさをアベルに向けました。そしてユダは、憎悪の矛先をマリアを超えて主イエスに向けたのです。

貪欲に駆られて、主に怒りの矛先を向けたのはユダだけだったのでしょうか。そうではありません。わたしたちは皆、神の敵であったからです。わたしたちも神からエデンの園を盗もうとした盗人アダムとエバの子孫です。誰もが主に逆らったから主イエスは十字架にかけられたのです。主イエスは皆に言われました。

「わたしの葬りのためにそれをとって置いたのだから。貧しい人はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」確かに主イエスの葬りの日が、もうすぐそこに来ています。もうすぐ主イエスは、裏切る者の手引きによって逮捕され皆に裏切られて十字架で殺されます。主は誰のために十字架に掛かるのでしょうか。貪欲に駆られ主に反逆したわたしたちのためです。

マリアの行動は、一見突拍子もなく見えます。しかし、主イエスはこう言ってます。「世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14章9)。マリアがしたことは奇しくも、洗足日の主イエスを思い出させます。主イエスは、弟子たちの前に身を屈めて、足を洗われたのです。マリアは、主イエスの前で身を屈めてその足を拭いました。ナルドの香油を主の足に塗ったマリアは、洗足日の主イエスの姿を前もって示していたのです。ペトロは、主イエスが、自分の足を洗うなど恐れ多くてこういいました。「わたしの足など洗わないでください」(ヨハネ福音書13章8)と。彼が言うとおり本来、わたしたちが主イエスの足を洗い、主に仕えるべきであったのです。

しかし、主であり師であるイエスが弟子たちの足を洗いました。弟子たちの足を洗った主イエスは弟子たちにこう言われました。「既に体を洗った者は全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハネ福音書13章10)。主イエスは、洗足日になさったことは、単に弟子たちの足だけ洗ったのではない。主は、わたしたちの全身と魂の奥底までに染みついている罪を洗い清めたのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによってあなたがたが豊かになるためだったのです」(コリント二8章9)。罪の奴隷だったわたしたちを解放するために、主イエスは神の身分を捨てて、奴隷の姿をとられたのです。主がわたしたちを愛されたように、わたしたちも互いに欠けがあっても赦し合い、互いに愛し合いましょう。

「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたの互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ福音書13章14)。

(説教者:堀地敦子牧師)