トピックス
刺し貫かれた方
刺し貫かれた方
二千年前のちょうどこの日、主イエス・キリストは、エルサレムの都に進んで入りました。神のご意志に従い、わたしたちの救いを成し遂げるため。十字架で命をささげるためです。日曜日にエルサレムに入ったキリストは、木曜日の夜には最後の晩餐を弟子たちと祝い、夜を徹して祈ったあと。金曜日の朝には、ゴルゴタの丘へと引き出されていきます。
十字架にかけられたキリストのそばには、主イエスの母マリアと数人の女性たち、そして主が愛した弟子が立っていました。すべての目が、十字架に挙げられたキリストを見つめていました。やがてキリストは、十字架の上で大きな声を上げられました。
「わたしは渇く」と言い、そのあと「成し遂げられた」と叫んで、息を引き取られました。
「わたしは渇く」。神と等しい方でありながら、キリストは渇きを知っておられました。わたしたち人生の飢え渇きを、キリストほど深く味わい知っていた方はいません。福音書の最初の頃、主イエスは、サマリアの井戸のほとりで、一人の女性に声をかけました。「水を飲ませてください」(4章7)。疲れを覚え、水を求めたキリスト。しかしこの後キリストは、サマリアの女性に語りかけます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。…その人の内で泉となり永遠の命に至る水が湧き出る」(4章14)。
わたしたち人間が陥る心と体の弱さを知り、渇きを覚える神の子。キリストこそが、わたしたちの渇きをだれよりも知っておられました。
あのときのように、いえ、あのとき以上にキリストは、十字架の上で「渇き」を覚えておられました。全世界の罪を背負い、わたしたちに代わって神の裁きを受けねばならない。いままでだれも経験したことのない飢えと渇きが、キリストを襲いました。その心と体、魂は、どれほど痛めつけられたことでしょうか。
しかし、まさにそのような方だからこそ、わたしたちの渇きを真にいやすことができたのです。神の御子キリストだけが、その渇きと痛みこそが、わたしたちを罪から救い、飢え渇いたわたしたちの心に、命の潤いをもたらします。
十字架の上で、最後に主イエスは「成し遂げられた」と叫んで、息を引き取りました。死を目の前に、飢え渇くなか、神の御業は成し遂げられた! ご自身の苦しみによって、世の罪がことごとく打ち砕かれ、わたしたちの救いをついに成し遂げられました。このことを喜んでおられるかのようでさえ、あります。キリストの叫びは、嘆きや敗北ではなく、喜びに満ちた、勝利の雄叫びでありました。
十字架の上で、世に向かって、神の勝利を宣言したあと、キリストは首を垂れて、息を引き取りました。「頭を垂れて」とは、神を礼拝する姿です。キリストは苦しみの中でも、最後の最後まで、神を愛し畏れ敬い、天の父を心から礼拝し続けていかれました。
こうしてキリストは「息を引き取られ」たのです。実はこの「息を引き取られた」と訳された言葉は、元の文章ではこう書いてあります。キリストは首を垂れて、「息=霊を引き渡された」。「息」とあるのは、「霊」という言葉です。つまり、十字架の上ですべてを成し遂げたキリストは、ご自身の死と引き換えに、命の霊・命の息吹を、わたしたちに吹き込んでくださったのです。
創世記2章7節で、天地創造のとき、土の塵から造ったわたしたちの体に、神は命の息=霊を吹き込んで、わたしたちを生きるものとしてくださいました。罪に堕ち、神との交わりが絶たれて、この命をわたしたちは失いました。その命=霊を、神は、十字架のキリストを通して、再び、わたしたちに与えられたのです。
キリストが息を引き取ったあと、兵士たちは、槍でキリストの脇腹を深く刺し貫きました。十字架につけられた人は、早くて2日、長いと4~5日はまだ息があったそうです。キリストは、朝から十字架につけられて、その日の夕方前には、がっくりと首を垂れたので、もう死んでしまったのかと不思議に思った兵士たちが、キリストの死を確かめるために、そうしたのです。
兵士たちがしたこの出来事の中にも、神のご意志が働いていました。「彼らは…自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き…死を…悲しむ」(ゼカリヤ書12章10)。兵士たちが意図せずしたことを通して、ゼカリヤの預言が、キリストの十字架によって、今ここに実現したのです。
「こうして聖書の言葉が実現した」。「聖書の言葉が実現するためであった」。「聖書の言葉が実現した」と、今朝読んだ聖書のところだけで、三度も同じ言い方が出てきます。聖書が繰り返しそう語るのは、神様が昔からの約束を忘れず、御子キリストを送って、わたしたちの救いを成し遂げてくださったこと。神のこの真実に、あなた自身を賭けてみなさい。信仰・希望を置きなさい。変わることない神の愛を信じて、神に望みを置きなさい。この神にすべてをゆだね、あなた自身を明け渡しなさい。そう語りかけているかのようです。この神の真実を宣べ伝えるようにと、主は願っておられます。
槍で刺し貫かれたキリスト。その深い傷から、キリストの血と水が流れ出て、世とわたしたちを潤し始めます。
十字架の上でキリストは「渇く」と言って、世で飢え渇くわたしたちに寄り添ってくださいました。さらにキリストは、命の水でわたしたちを潤すだけでなく、もっと偉大な救いの恵みをわたしたち信じる者たちに注いでくださいました。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」
(ヨハネ3章5)。 「あなたがたは新たに生まれなければならない」(同3章7)。
「しかし…光の中を歩むなら…御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(ヨハネの手紙一1章7)。
キリストは知っていました。確信しておられました。御自分の死によって、ご自身からほとばしり出る「血と水」が、必ずわたしたちを救うことを。
事実、わたしたちは、キリストの名を信じて、キリストの水と血によって新しく生まれてきたのです。十字架で息を引き取られたキリストから、血と水を浴びて、わたしたちは救われました。キリストの血によって罪を赦され、キリストが注ぐ水によって罪から洗い清められてきたのが、わたしたちです。
あるいは、こう言ってもよいでしょうか。キリストからほとばしり出た水によって洗礼を授かり、キリストの脇腹から流れ出た血潮を飲まされ、神の子として永遠の命に養われている。これこそわたしたち教会であり、その肢(えだ)である一人ひとりです。
十字架の上でキリストは、勝利の雄叫びを上げ、最後に「命の息=聖霊」をわたしたちに注ぎかけてくださいました。
キリストを信じて洗礼を受けたのも、聖餐によって天上のキリストとわたしたちとが一つにされているのも、キリストがその命と引き換えに、十字架の上で、わたしたちに聖霊を吹き注いでくださったから。すべては聖霊の力によるのです。聖霊の導きによらなければ、だれもイエスを主と告白することはできません。聖霊の注ぎなしに、教会は立つことも歩み始めることもできません。
しかし、わたしたちには十字架の主キリストがおられます。神でありながら、肉をとり僕の身分となって、わたしたちと等しくなられた神の御子が、わたしたちのために、肉を裂き血まで流してくださいました。わたしたちのために、救いを成し遂げてくださいました。このキリストを、わたしたちは知っています。信じています。教会の頭でありわたしたちの主、この方こそわたしたちの救い、希望です。なにがあろうとも、この方から離れず、この方を愛しぬきます。キリストに依り頼みます。これに勝る力はありません。
「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者」たちは(ヨハネの黙示録1章7)。
(説教者:堀地正弘牧師)