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主が与える幸い

民数記10章29~32節、ルカによる福音書9章49~50節
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主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

主が与える幸い

イスラエルがシナイ山に来て、一年経った頃、人々は主に命じられて約束の地に向け出発するところです。ミディアン人レウエルの息子ホハブが現れます。レウエルは、ミディアンの祭司で、彼には七人の娘がいました。モーセは若いころ、エジプトの王女の息子として育ちました。成人したモーセが自分がイスラエル人だと知った矢先に彼は、イスラエル人がエジプト人に虐待されるのを目にしました。それを見たモーセは憤り虐待していたエジプト人を殺したのです。殺人の罪を恐それたモーセはエジプトから逃げました。逃亡中のモーセはミディアンの祭司レウエルに助けられ、彼の娘チッポラと結婚して二人の息子が生まれます(出エジプト記2章16~22節)。ホハブは、この祭司レウエルの息子、すなわちモーセの義理の兄弟です。義理の兄弟と訳されて言葉は、原語では義父(しゅうと)と同じ言葉です。

モーセは、義兄ホハブに言いました。29「わたしたちは、主が与えると約束した土地に旅立ちます。一緒に行きましょう」と。「わたしたちはあなたを幸せにします。主がイスラエルの幸せを約束しているからです。」一緒に来てくだされば、あなたを幸せにできます。まだ土地も何も持たないのにずいぶん思い切った誘いです。その理由は、主がイスラエルを幸せにするからです。モーセは神がイスラエルに約束する幸いを分かち合おうといったのです。

それに対して義理の兄は、「いや、行くつもりはない。生まれ故郷に帰りたいと思う」と答えます。イスラエルがこれから目指す約束の土地に行くよりも生まれ故郷に帰る方が良いといいました。生まれ故郷にいるほうが日々の生活も慣れ親しんだやり方が通用し安心です。

「どうか、わたしたちを見捨てないでください。あなたは荒れ野でどこに幕屋を張ればよいか、よくご存じです。わたしたちの目となってください」。

かつてモーセの義理の父が助言をしてくれました。イスラエルの大勢の民を治めるためモーセが民の持ち込む相談ごとを一人で基久乃ではなく長老を立てモーセの担う重荷を軽くするように。長老たちだけでは難しい場合はモーセが話を聞くようにいわれたのでした。砂漠の旅にあなたの知恵を貸して欲しい

「一緒に来てくだされば、主がわたしたちを幸せにしてくださるなら」共に来てくれたら共に共に祝福に与ることが出来ますとモーセは義理の兄弟に言ったのでした。

果たして、義兄ホハブの二度目の返事は、どうだったのか。ここには記されていません。かつてモーセは、義理の父から助言を受けたことがあります。義父は、一人でイスラエルを治めるモーセに対しイスラエルに長老を立てなさいと言ったのです。簡単な問題は長老たちに解決させる。長老たちに解決できない難しい問題はモーセが担う。こうして民を治める任務をモーセが長老たち共に担うように助言しました。(出エジプト記18章)。あの時、義父は故郷のミディアンに帰って行きました。ホハブも同じように故郷に帰ったのでしょうか。気になる記述があります。士師記4章11節「カイン人のヘベルがモーセのしゅうと(しゅうとと義理の兄弟はヘブライ語では同じ言葉)ホハブの人々…」モーセのしゅうとホハブの子孫たちがカイン人の居住地に住んでいたことが分かります。カイン人の居住地はイスラエルが後に得た約束の地のすぐそばです。ホハブはモーセと共にあの時ついて来ていたのかもしれません。

ホハブのように、我々も慣れ親しんだ環境を簡単には手放せません。生まれ故郷に暮らす安心感、自分のよく知っている親族やなじみの友人や知り合いに囲まれて暮らすこと等。それに比べたら、イスラエルと一緒に行くのはリスクが高いです。本当に約束の地にたどり着けるのか。仮に約束の地に行っても、自分たちの分け前はあるのか。荒れ野に旅だつ決心がつかなかったのは我々にもわかります。

新約の時代にもパウロやペトロ、使徒たちにも親しみを感じている人々がいました。時には礼拝に与りにきている。しかし、クリスチャンとして信仰生活を始める勇気がない。そんな人々が度々出てきます。

主は、わたしたちが信仰の決心をする前に御自分を十字架に献げれたのです。主イエスがおられなければ神の国にわたしたちの場所はありません。信仰は、主の恵みに責任を持ってこたえること。主がわたしたちに幸いをくださる。主はわたしたちの応答に報いてくださると信じることです。まだ誰も見たことがない、人の心に浮かんだこともない神の与える幸いを望み見ましょう。

2020年8月23日 聖霊降臨節 第13主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師