草深教会について
草深教会のあゆみ
キリスト教が静岡に伝えられた経緯
江戸幕府の滅亡を受けて、1868(明治元)年7月に最後の将軍徳川慶喜が水戸から府中(現在の静岡市)へ移送され、翌8月には徳川家の家督相続を許された徳川家達が駿府藩主(静岡藩主)としてやって来ました。
この新しい藩は、軍隊を持つことが許されなかったため、文化・教育に力を注ぐことで自立の道を求めました。そのために設置した教育機関が静岡学問所や沼津兵学校でした。
静岡学問所では漢学・国学・洋学の教育が計画され、英語・フランス語等も教えていました。ここに物理や化学を教える22歳のアメリカ人教師、エドワード・ワーレン・クラークが1871年にやって来ました。そのきっかけを作ったのは勝海舟でした。
クラークは契約交渉において、日曜日に自宅でバイブル・クラスを開くことを認めさせました。この青年教師をとおして、静岡の地にプロテスタント信仰の種がまかれることになりました。 ところが1872年、静岡学問所は政府の方針で廃止されることとなり、その建物は賎機舎(しずはたしゃ)と呼ばれる私立英語学校によって引き継がれました。ここに、東京へ去ったクラークに代わってデヴィッドソン・マクドナルド宣教師が1874年4月に赴任してきました。 マクドナルド宣教師によって、静岡市で最初の教会となる日本メソヂスト静岡教会(現在の静岡教会)がその年の9月に設立されました。
静岡美普教会(静岡草深教会の前身)の誕生
創立者エドワード・ハワード・ヴァンダイクは、アメリカのメソヂスト・プロテスタント教会(美普教会)の宣教師で、1890(明治23)年1月に来日しました。彼は名古屋英和学校に赴任し、その仕事をしつつ静岡での伝道に備えて出張伝道を始めました。1892年の秋、ヴァンダイク夫妻は静岡市西草深町25番地に家を借りることができ、ここを日本美普教会静岡講義所としました。
ヴァンダイク夫妻は、礼拝ができる場所、日曜学校が設置できる場所を与えられたことで、本格的に伝道を進めることができました。1893年3月2日、静岡講義所は18名の教会員をもって教会を組織し、静岡美普教会が誕生しました。 初代牧師には畑純三が赴任し、婦人伝道師の石井チカ子も同時に派遣されて創設期の伝道に力を尽くしました。教会設立当時の教会員の名簿は残っていません。 教会に会堂が与えられたのは1894年でした。西草深町112番地の現在地に会堂・牧師館を建築することができ、6月21日に献堂式を行っています。その資金約1000ドルはアメリカ美普教会から送金され、オルガンや聖餐用具もアメリカの教会員の熱い祈りと協力によるものでした。
静岡美普教会の伝道の歩み
日本美普教会は、静岡県内に6つの巡回(サーキット)を置いて伝道しました。巡回とは教会になる前の講義所(今の伝道所)がいくつか集まったものをいい、その巡回に1名ないし2名の牧師か伝道師が派遣されていました。
静岡市には静岡美普教会と別に静岡巡回が置かれ、市内伝馬町・片羽町・梅屋町などのほか、山間部の玉川村横沢や大河内村平野などにも講義所を置いて伝道に励みました。 「ヴァンダイク、娼妓を救う」との大きな見出しが1900(明治33)年6月10日の『静岡民友新聞』に出ました。これが静岡における自由廃業運動の始まりを告げる事件となりました。 この時期に静岡県内の美普教会は、他教派の教会とともに廃娼運動と禁酒運動を積極的にすすめ、その運動をとおして福音を伝えるチャンスが多く与えられていったのです。
廃娼運動や禁酒運動をともに担った市内のプロテスタント諸教会は、1901年、全国規模で開催された「20世紀大挙伝道」を静岡で成功させました。その経験をもとに、市内の諸教会は連合説教会を開いたり、全国協同伝道(14年~)や神の国運動(30年~)などを共催し、教派を越えた伝道協力をくり広げました。
青年会が静岡美普教会に組織されたのは1906年のことであり、婦人会は1910年代後半に組織されたと思われます。伝道開始当初から設置されていた日曜学校も含めて、これらは市内の諸教会と連合組織を作り、祈りつつ伝道をともにしてきました。なお、壮年会は戦後の58年になってつくられています。
戦時下の教会の様子
現在の建国記念の日にあたる2月11日、教会は紀元節記念祈祷会をもちました。1931(昭和6)年のことです。39年4月に天長節奉祝礼拝、41年2月には市内基督教連合主催の紀元節礼拝をもちました。教会は国家統制の中に組み込まれていったのです。 34年以降、静岡美普教会からも数多くの青壮年の教会員が出征し、2名の方の戦死が確認されています。
軍国主義が社会を圧迫するようになった34年、アメリカ美普教会は日本美普教会に対して自立を強く要請し、資金援助の減額・停止を伝えてきました。その影響もあり、36年から日本美普教会は日本メソヂスト教会と両教会の合同について検討を始め、40年9月、合同することを決断しました。
一方、国内のプロテスタント諸教派は1920年代から教会合同を模索し始めていたのですが、作業は難航しました。国家が宗教を統制することを目的とした宗教団体法が40年4月に施行されると事態は急展開し、34教派による教会合同が実現に向かいました。
41年6月、日本基督教団が設立されました。日本美普教会と日本メソヂスト教会は両者の合同を棚上げにし、ともに日本基督教団に参加しました。これによって静岡美普教会は日本基督教団静岡草深教会となりました。
防空訓練のために礼拝を午前6時から始めたり日曜学校が臨時休校となったりすることが、42年以降、増えました。それでも宇佐美市平牧師は懸命に礼拝を守り、各家庭持ち回りの祈祷会を熱心に続けていきました。
当初は軍事関連施設を狙っていた米軍による空襲が、45年に入って一般市民を標的とする夜間無差別攻撃に変わりました。45年6月20日午前0時過ぎに「静岡空襲」が始まり、米軍は市内の7割を焼失させました。静岡草深教会は午前1時過ぎ、焼け落ちたそうです。
第2次世界大戦後、静岡草深教会の復興
宇佐美牧師は、敗戦後すぐにバラックの住まいを建て、教会員とともに礼拝を守り続けました。翌46年に簡易住宅を建てて仮会堂とし、日曜学校も再開させました。
待望の新会堂は50年8月に完成しました。その資金として、教会員の献金10万円と、教団を通じてもたらされた北米諸教会からの献金20万円が使われました。その時、青年会はチョコレートを販売して建築資金の一助とする活動をしました。
教会には多くの青年が集まりました。彼らは中静分区の教会の青年と交わりを深めたり、教会学校教師として奉仕したりして活躍しました。それは教会を明るく照らす光でした。
赴任から36年が過ぎて72歳に達していた宇佐美牧師は、焼津で伝道していた辻宣道伝道師の招聘を教会に提案しました。教会総会はこれを可決し、1954年4月に辻牧師が赴任しました。
静岡草深教会の願う教会形成
辻牧師は、礼拝の厳守と祈祷会の重視、諸集会や教会行事への積極的な参加を教会員に求めました。礼拝においては神のみ言葉が純粋に説教され聞かれること、そして聖礼典がキリストの制定に従って執り行われること、このことは宗教改革者カルヴァンが目指したことですが、この明確なしるしが大切であると強調しました。
教会が「キリストの体」とされること、そして長老主義に基づく教会が形成されることを祈り求めて、新たな歩みが始まりました。
ともに学びともに祈ることをとおして、教会は主にある喜びと力を経験しました。60年前後から、壮年会・婦人会・青年会は例会で聖書研究をしたり、ボンヘッファーやブルンナーなどの著作を学ぶようになりました。
さらに教会は年ごとに教会目標を設定し、それを軸として年間事業計画を立てることや、教会全体修養会や教会懇談会の開催にあたっては教会員が計画の立案と実施に責任をもつことなども同じころから始まりました。
このようにして教会は成長するきっかけを与えられたと思います。77年に礼拝出席者の平均が100名を越え、84年には祈祷会の平均出席が50名を越えました。
建国記念の日の制定を受けて、教会は68年2月に臨時総会を開いて「わたしたちの決意」を採択し、信教の自由を守る意志を表明しました。その年に始まった「思想と信教の自由を守る静岡市民集会」には、今日に至るまで教会員の有志が積極的に参加しています。
主の恵みのうちに、教会は93年3月に創立100周年を迎えました。私たちはその感謝を、新会堂の建築と百年史の発行によって表したいと考えました。新会堂は94年11月に竣工し、95年1月に献堂感謝礼拝をささげることができました。百年史は2002年に『静岡草深教会百年史』を発行して、すでに発行していた『静岡草深教会各部史』、『静岡草深教会百年史年表』とあわせて三部作が完成しました。
この教会の歴史は神の歴史であり、私たちはこれを次の世代へ伝える責任があると考えます。私たちは信仰が正しく受け継がれることを切に望み、真実の礼拝を守っていきたいと願っています。
また、私たちは日本キリスト教団に所属する教会として日本の伝道に深い関心をもち、近隣の諸教会(東海教区の教会、中静分区の教会)とともにこの地域における伝道の責任を果たしたいと願います。
神が憐れみをもって、このことを成し遂げさせてくださるように。アーメン