コラム

招致か招詞か

牧師 飯田啓子

 草深教会に着任して丸2か月が過ぎました。ここまで導き支え用いてくださった神様に感謝します。そしてこれからもやがなります(秋田弁で“お世話になります”の意味)の祈りを続けます。

 はじめて草深の週報を拝見した時、“招致”という表記が草深らしいと感じました。私は母教会時代から礼拝“招詞”という表記と発声で礼拝に招かれていることを味わっていました。教会学校礼拝では「招きの詞」と言い換えられていましたが招詞です。時代劇が好きでしたからセリフで「笑止千万」を覚えた頃は、司式者が「招詞」と発話した直後、心の中で「千万」と付け加え、ニュースなどで「少子高齢化」という表現が出始めた頃は「招詞」と聞くと「高齢化」と心の中で付け加えていました。恐らく司式者のイントネーションやアクセントによって「しょうし」が招詞/笑止/少子に聞こえることを 楽しんでしまう 不真面目な信徒でした。

 そして草深では「招致」です。これは「招き寄せる」「招いて来てもらう」意味で、オリンピックを招致する等の時に用いられますから、その出来事自体を招き、その出来事の中に呼び集めることだと考えます。結婚式などに招く招待が招致、招待状(文面・文字)が招詞と考えれば解りやすい。そして招致は教会が牧師を招く時の招聘と同じ行動です。招くことが招聘・招致、それを文書で認めた招聘“状”が招詞にあたります。

 そして大切なのは礼拝そのもので、礼拝へ招いてくださっておられる神様がいらっしゃる。この御方が招待者である、ということです。そう考えていますから、礼拝招致の御言葉は毎月変更して神様御自身が発せられた言葉にしています。6月は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」としました。神様が礼拝自体を招き、礼拝に招待してくださるのは、必ずあなたと共にいることのしるしであり、このしるしだけを理由にして神に仕える(礼拝を献げる)ことを良しとしてくださっているからだと信じています。私たちは仕えるというと奉仕などの行為や行動をイメージしますが、これは神様の愛に招かれている者として神様を愛し自分自身を献げていくこと。一緒にいてくださる愛を与えてくださる方に、安心して自分を委ね、その御方を愛することです。神様に愛されていることを知って、愛するものに育てられていく。先ず愛されていることを信じて知る“経験”が先にあって、その経験“値”が神を愛し仕えていく献身として用いられていきます。

 新しく与えられた6月。インマヌエルの神に愛されていることを経験して、安心して神を愛し仕える歩みを献げていきましょう。