コラム
おことばしんじ
牧師 飯田啓子
「お言葉信じ弟子たちが、共に二階に集まって、ひたすら祈っている時に神の御霊が降ります」「御霊を受けた弟子たちは、霊の力に満たされて不思議な御霊の働きを罪の世界に伝えだす」「力を受けた弟子たちは、どんな悩みも苦しみも、少しも恐れず伝えゆく、神の言葉の証し人」《主の体の教会がこうして世界に広がった》。子ども讃美歌42番“おことばしんじ”です。
とても不思議に思うのはペンテコステの讃美歌は一年に一回しか礼拝で讃美するチャンスがありません。でもペンテコステだと思うと必ずこの讃美歌を口ずさみます。私が小学生時代は愛唱讃美歌と言えば547番“今ささぐる”と子ども讃美歌42番“おことばしんじ”です。理由は547番は毎主日礼拝毎に必ず讃美していた(讃詠や説教 前後の 讃美歌は毎週 変更 パターン)から、メロディーや歌詞を覚えていた (何よりもこの讃美歌を歌えば、もうすぐ礼拝が終わる!というゴールみたいなのが見えていたからだと思います)のでしょう。でも“おことばしんじ”は教会学校で年に一回歌うだけです。
もう一つ不思議なのは、礼拝の歩み信仰の歩みを重ねていくことで、この讃美歌の歌詞が身に染みてくることです。素直な気持ちで聖霊の働きを受け入れて信じていたわけではなく、特に信仰生活で失敗を繰り返す経験の中で、自分の力ではなく聖霊の導きなのだと思い知らされていくようにされ続けている、まさに神様の導きだからでしょう。
一生懸命に証し人として励もうとする。罪の世界にキリストを伝えようと伝道に励もうとする。主の体なる教会を立てよう/建てようとする。自分が励もうとすればするほど失敗を繰り返します。サボれではありません。教会を立て伝道を進めてくださる神の力に、自分を献げれば良い、自分を用いて頂けば良い、自分を差し出せば良いだけなんです。それを用いるのは神様です。
前任地を辞任する時、役員一人一人に役員会に対して、教会は奉仕者の集まりではなく、献身者の集まりだ。一人一人本気を出せ、一人一人自分を出すなと言い残しました。ナゾナゾみたいな表現です。これを口にした時、頭の中では“おことばしんじ”が流れていました。弟子たちが使徒とされていく。奉仕が献身とされていく。本気で信じて本祈(ほんき)にされていく。気を祈に変えられていくペンテコステが、一人一人に与えられ、そして教会とされていくのです。