コラム

災いの中で叫び求める者がいても人は瓦礫の山に手を差し伸べない

飯田敏勝

 コラムのタイトルは、聖書協会共同訳のヨブ記30章24節です。近年の翻訳である新改訳2017でも、具体的に「瓦礫」の語が用いられています。新共同訳以前の解釈と訳文とは印象が違います。
 阪神淡路大震災の後、東日本大震災の後、わたしはヨブ記を開きました。世の不条理を取り扱っているからです。今回新しい訳で読んでみると、不幸を語る場面で、上記のように災害と関連する表現が目立つ気がしました。
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 ヨブ記はわたしにとっては難解でした。単に勉強するだけでなく、仲間とのディスカッションを経て、近年やっと自分なりに読解の糸口がつかめました。(牧師であってもそんなものです。)
 基本構造自体は明確で、ヨブとエリファズら三人の友人とは、最終的に神さまから諭されます。双方とも神さまを素直に信じていますが、いわゆる因果応報の見解が異なります。ただ、いずれも神さまとの関係に問題があり、ヨブなど自分を神に優る位置に置きかねないのです(参照、ヨブ33:12~13)。
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 古代のように世界が無限に広がっていると思われていたら、敵を滅ぼし、自分たちが安心していられる場を確保することは命と同義です。
 しかし現代、世界の有限性を踏まえれば、自分とは異なるグループの者たちをも隣人とみなすべきです。そうしたとき、詩編なども含め敵を滅ぼせとうたう聖句の解釈も変わってきます。敵対関係を生み出す、自分自身を含めた人間の罪深さを「敵」の語の中に見ていきます。
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 今日のコラム題も「敵」の心ない仕打ちを語る中に出て来る表現です。
 ただ、今回の令和6年能登半島地震の被災地・被災者を思うときの、わたしたちのもどかしい思いを代弁してくれるものでもありましょう。
 何かしてあげたいと思う気持ちは素直なものですが、それだけで駆け出してもヨブと同じように諭されるかもしれません。
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 今回の地震についての教団としての緊急募金も始まりました。ただ集まったお金で方策を見出すことこそが、これまでの震災と違う課題があって難しいと思われます。
 ガザ地区にむけてクリスマス献金から教団社会委員会の呼びかけに教会として応えましたが、個々人でも志をお持ちの方もきっといることでしょう。ただ、普段通りに呼びかけても募金インフレのようで統制が取れなくなりそうで、長老会としては、ガザに関しても能登に関しても、ひとまず個人で募金をプール(ため置く)しておくことをお願いすることになりました。改めて呼びかける際にご協力ください。