コラム

正統的信仰は迷いを伴うもの

飯田敏勝

 わたしが教団の教師検定試験を受けたときの教会史の問題に、ドナティスト論争を説明せよというものがありました。
 迫害が当たり前の時代、棄教した司祭から受けた聖礼典は有効かどうかという議論です。ネット検索すればWikipediaの「ドナトゥス派」がヒットするので、詳しく知りたい方はご参照ください。
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 外岡強司さんが折に触れて、胸の内を吐露されることがあります。先日も祈祷会後に言われました。
 強司さんが生徒だったときの教会学校のある先生が、強司さんが洗礼を受けるときには教会を離れてしまっていた、と。
 当然、わだかまりは残りますよね。
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 ただ強司さんは、自分は信徒としても、教会学校教師としても、できる限りは続けようと決意され、その思い通り実践されています。
 当方就任式で母教会に赴任するなんて……とぼやいた思いは変わりませんが、強司さんの生徒だったわたしがほぼ四十年ぶりに今でも同じ教会学校の外岡先生のCS説教を聞けるのは幸甚の至りです。
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 わたしが牧師になるか迷っていた時期に相談した、たった一人の相談相手がいます。先週のコラムの楠本先生などと同様、石川地区での交流の中でわたしが信頼を置いていた若手牧師です。転任先の教会をお訪ねして、話し合いました。時に数時間にわたる沈黙も挟みながら、相談に乗っていただきました。その一泊二日の時がなければ、わたしは絶対に牧師になっていなかったでしょう。
 ただその先生は、数年後に牧師職を辞しました。
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 自分自身の信仰的決断に携わった諸々の要素が、人間的な目で見てまさに汚れがなければ、言うことなしかもしれません。しかし世の中を歩むとき、そうはうまくいかないことがあります。
 しかしドナティスト論争が帰結したように、神の恵みは人の過ちに左右されるものではないというのが正統的信仰です。
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 牧師になるかどうかはもとより、信仰的決断には神さまからのお呼びがかかっていることは信じねばなりません。そうした召命にも、人の関わり合いが、様々な紆余曲折と共に介在していることも多々あります。しかしヨセフ物語(創世記37~50章)を読めば、そうした中にも神さまの導きが確かにあることは受け止めることができるでしょう。
 信仰は、肉なる者の考えや感じ方が最終判断ではないのです。神さまに従うところに答えが備えられています。