コラム

役割分担

飯田敏勝

 先週の祈祷会で、いやしの奇跡を扱いました。聖書研究後「今でもあればいいのに」という声が挙がりましたが、ありますよ。
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 最近ニュースで、ミレニアル世代(1980~90年代生まれ)初の聖人誕生というものがありました。
 2006年に15歳で亡くなったカルロ・アクティスさんは、膵臓の先天性疾患のいやしで福者に認定されていました。外傷性脳出血の学生のいやしを、教皇が二つ目の奇跡だと今年5月23日に認めたことで、(時期は未定だが、来年?)ローマ・カトリック教会の聖人になるという話です。
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 先月、分区の青年会の今後の活動が話し合われましたが、信仰と関わる映画を一緒に観るのはどうか、その具体例として『エクソシスト』という意見が出ました。
 聖書に出てくるけれど、わたしたちは普段、悪魔祓いはしません。関心があって、カトリックに本当にそういう部署があるのかわたしは知り合った神父さんに訊いたりするのですが、「知らない」と言われたり、「自分は関わらないけど、あるんじゃない」と言われたりします。ま、カトリックも組織が非常に大きいですから、すべての領域に通じているわけでもないのでしょう。
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 キリスト教は長年の歴史の中、枝分かれし、役割分担も進みます。すべての教会は礼拝を中心として、宣教と伝道の務めに携わります。
 上記のいやしの奇跡や悪魔祓いのように現代世界で一般的に行い得ないことでも、もはや無くなったと否定する必要はないでしょう。分化した枝で、正統的な教会が、今も担っていることがあるのです。
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 もう少し身近な例で言えば、教誨(きょうかい:受刑者の心への働きかけ)という宗教界が担う務めがあります。すべての牧師が携わるわけでありませんが、キリスト教界としてまた教団としても、この務めの大切さ――本当に赦しの福音を求めている人がいて、それを届ける場と機会があること――を承知しています。
 ですから教区や教団でも、その活動を支援し、少なくとも皆で祈って支えていく必要があります。
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 教会が〈キリストの体〉と呼ばれるとき、役割分担も大切にせねばなりません(参照、Ⅰコリント12章)。自分が普段携わっておらず、見聞きすることすら少ない分野もあります。それでも広い意味で宣教の働きの一端を確かに担っていることがあるのです。
 〈キリストの体〉を個教会や自分の教団だけでなく、世界中の正統的な教会の中で捉えていくことは大切です。