コラム
祈祷会に出席しよう
Young happy multiethnic couple asking Lord to bless their food and day
飯田敏勝
↑という題をかかげられても、たじろぐ気持ちは分かります。いわく「人前で祈るのは恥ずかしい」、「聖書研究の勉強がつまらない」、「都合がつかない」等々の心因がありましょう。
それでも、草深の良き慣習として祈祷会出席奨励は決して止めてはいけないと思います。
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祈りは対話です。密室の祈りも必要ですが、独白に傾きかねません。公の場での祈りの訓練は必須です。
何より「人前で」という観点ではなく、「神さまの御前で」祈るエクササイズをせねばなりません。P.T.フォーサイスが『祈りの精神』で、「祈らない罪はその背後にひそんでいる『祈りを欲しない罪』を呼び覚まし、祈りの不能という結果を生む」と言っています。イエスさまによって拓かれた、神さまと親しく(それこそ親子の対話のように)語り合える、祈りという道があります。その道は、絶えず実際に通ることで、整備しておかねばならないのです。
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礼拝説教は魂の食事として、整えられて提供しなければなりません。一つの筋道だったメッセージであるべきです。
ただ祈祷会の聖書研究は、信仰的であることは保ちながらも、解決できない事柄を明示したり、多様な解釈を並列したりすることもあります。皆さん一人一人が聖書を読む上での、視野が広がるかと思います。
例えばイザヤ書6章(特に5~8節)を読んで、預言者としての召命に相応しい罪の赦しが確かにあったことを、説教なら説くでしょう。
しかし聖研なら、その宗教的・精神的側面は確保しながらも、炭火が唇に触れるなんてイザヤも大変だよね、なんて話までします。
更にこれが聖書通読会のざっくばらんな感想の述べ合いになると、松本清張かいかりや長介みたいになったんじゃない?と笑っています。
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礼拝もそうですが、祈祷会も毎回出席が叶うとは限りません。しかし、全く都合がつかないことはないはずです。信仰の成長のために、祈りは不可欠です。神さま御自身が成長を与えてくださいます(Ⅰコリント3:6)。牧師の働きでもなく、出席する当の本人の働きでもなく、信仰の歩みは、神さまと二人三脚で進めねばなりません。そのため祈って、意思疎通の風通しを良くしておくのです。
義務ではないので、四季折々にでも、年に一回でも、参列してくださればと願っています。はなから完璧な対応は求めていません。ただ、冒頭に掲げたような言い訳する心の思いを、どこまでも強く打ち出してはいけません。たまでもいいので、気楽な思いで、あるいは不安を正直にさらしながらでも、出席してみてください。