コラム
現実をすくい取る
飯田敏勝
先週(12月8日㈰)のNHK俳句にゲストで、荒井千佐代さんというカトリック教会のオルガニストが出演していました。この方が「忌」「灯」「影」で詠んだ句が以下のとおりです。
鍵盤のひとつ沈みて原爆忌
オルガニストのみに灯(ともし)や降誕祭
白鍵に黒鍵の影凍(いて)返る
取り合わせの妙があるとしても、現実の風景は教会オルガンあるあるです。わたしもかつて、指先が出る手袋で冬場は練習していたこと、即座に思い起こしました。
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故郷に戻って牧会・伝道をする上で、戸惑うことがあります。神戸にしても大曲にしても、よそ者であるがゆえ、その町とそこに生きる人々の特徴をとらえやすかった面があります。
たとえば秋田なら田園風景を前に、地元民が「何もない」と言っても、「吹き渡る風」や「飛来する鳥」の魅力を延々と説くこともできます。ハクチョウやガンなどを間近に観察できることにわたしは大興奮していましたが、地元民はカラス程度に「いて当たり前」という感覚だったりします。
それが町と人とを愛することにつながるのですが、故郷だと何もかも当たり前に思えてしまったりして、大切にするとっかかりを見つけにくかったりします。
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芹沢銈介美術館で「安倍川原」という型染めを見たとき「これだ!」と思い至りました。安倍川越しに富士山が見える、現実の風景をわたしもよく知っています。しかし、芸術家の目と腕を通し、作品となると素直に愛せると思ったのです。
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向かい合っている現実を、把握しにくいことはあります。その人なりの観察の仕方や、把握の仕方もあるにしても、それがうまくできない場合もあります。
文学なり美術なりで昇華するようにワンクッションを置くと、捉えられる道もあるというわけです。
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神の国を把握することも、わたしたちは長(た)けていません。イエスさまと聖書が伝えることを受け止めるしかありませんが、その際の審美眼というか、真理をすくい取るような腕を鍛えねばならない側面があります。そして、たとえ自分ですべてを把握できずとも、教会の仲間と得たものを分かち合っていく姿勢も、非常に大切かと思います。