

コラム
エウレカ!

飯田敏勝
タイトルは、アルキメデスが純金の王冠の見分け方を思いついたときに叫んだとされる感嘆詞ですね。「分かった!」という意味で、この言葉を叫びながら裸で町を駆け回ったと言われています。
それほど大袈裟でなければ、同様の開眼を「アハ体験」と称することも最近では普通です。
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去年からわたしがウクレレに手を出しているという、個人的趣味の話をちょこちょこあちこちで出していました。しかし、独学で進歩がなかったのも確かです。
ふとした縁で、教えを乞う師を与えられ、なんか一気に進展を見ました。
左手で、うまくコードが押さえられませんでした。自分の指の太さのせいかと思っていましたが、高木ブーさんでも扱えているのだから、言い訳に過ぎませんね。それでも、図のとおり指を置こうと思っても、全然うまくいかないのです。
しかし師に教わりながら、コード進行を実際にしていく中で難しかったコードを押さえてみると、なぜか指が動いたのです。次のポジションも意識しながら、指だけでなく手や腕の向きまで指示してくれるので、できるようになったのです。
まさにエウレカでした。
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自分の得意な折り紙やリコーダーなら、難しいところも格闘しているうちに、小さなアハ体験程度の積み重ねでステップアップしていけます。
しかし苦手分野だからこそ、困難な山を乗り越えたときに、一気に世界が広がるような経験になります。
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神学を学び続けていても、それは思い当たります。
知識を増やすだけでなく、何か体系が変わるんです。歯車が噛み合うように、組織全体がうまく機能するよう動き出すことがあります。
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聖書を読む上で、鍵となる箇所がいくつかあります。一般的な知恵ではなく、当の本人が格闘した上で乗り越えた場合、エウレカと叫びたくなるものでしょう。
わたしの場合、エゼキエル書18章2節でした。出エジプト記20章5節では「父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」のに、エゼキエル書ではあくまで当の本人が報いを受けるのです。更に「酸いぶどう酒」を受けたイエスさまが十字架で死なれる(ヨハネ19:29~30)ことで、実現した赦しがあります。
聖書は全体的に救済史を伝えていることを、知識では踏まえていました。しかし自分自身で聖書と格闘し、歴史を追って実現した事柄があることに自分自身で気がついたならば、その真理をエウレカ的に讃美することができるのです。