

コラム
してきなことば

飯田敏勝
わたしが まるで
海の水に おぼれたように
どろのなかに おっこちたように
なったら
神さま わたしを
ひっぱりだして!
神さま わたしを たすけて!
たすけて!
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先週の説教を皆さんがどれほど覚えているか知りませんが(笑)「海」、そしてまた「泥沼」には、聖書における象徴性があります。
原著はフランス語で、『詩編―こどもと おとなの ための―』(至光社、2006年)から、上記は詩編68編をパラフレーズしたものです。この絵本、いいですよ。詩編の言葉を説教するかのように、やさしく、なおかつ本質を突いて、説き明かしてくれています。
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プロテスタントの特徴の一つに、自由祈祷の重視があります。しかし、それは一方で自分では対処できないような大ごとを祈るとき ――もちろん素直に神さまに助けを求めればいいのですが――どう祈っていいか分からず、戸惑うことになります。
その大ごとは、巷のショッキングな出来事だけでなく、わたしたちが聖なるものに近づく際にも起こるものでしょう。先週の長老会で、聖餐準備の際にどう祈ったらよいか分からないという声が上がりました。
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カトリックのミサ次第の中、聖体拝領にいたるまでに「栄光の賛歌(グロリア)」があり、イエス・キリストに「世の罪を取り除く主よ、わたしたちの願いを聞き入れてください」と呼びかけます。
ヨハネ1:29の文言を知ってはいても、これで祈る機会はわたしたちには滅多にないでしょう。しかし、聖餐に近づく際にこのように唱え、主の働きの本質を覚えることは、大いに参照できると思います。
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最近、芸術とは何か?を思い巡らすことが多々あります。「芸術は制限で成り立っている」(G.K.チェスタトン)をわたしなりに解釈すれば、情報量は少なくとも、多くを語れることです。様々な芸術分野はありますが、それぞれの手法において、いわば散文的な記述よりも広がりを伴って、伝えられることがあります。
私的な言葉では描くことも、伝えることもできないことが、詩的な言葉では可能になるのです。牧師がこう祈れといった文言で祈るだけでは、聖礼典もプライベート化しかねません。聖書と教会の伝統に基づいて、公の祈りの言葉が備えられることが問われています。