コラム

規制は無いけど既成は在る

牧師 飯田啓子

 7月3連休明けの水曜日。全国30都道府県で一日の感染者数が過去の記録を更新した。特に祈りに覚えている地域の静岡・大阪・秋田も記録更新。秋田では800人越えという信じられない数字でした。新しいウイルスの感染力の強さと速さを思いながら、行動規制の無い状態を過ごす責任と圧を感じます。皆さんもくれぐれも心配し過ぎないようにしてお過ごしください。
 相手の判断に任せる。先日の祈祷会で取り上げたヨセフ物語。ヨセフの不在が明らかになった時、兄たちは彼の服を血で染めて父親に送った。その服を見て父ヤコブは「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ」と、ヨセフの死に直面します。そして幾日もの間、自分の衣を引き裂いて嘆き悲しみ、粗布を腰にまとって喪に服しました。

 出来事を自分自身で判断する。その責任が私たちにはあります。また相手に判断させようとする働きがあります。様々な責任やあるいは忖度がプレッシャーとなってしまいます。自分で決断をしなければならない時、私たちが責任の重さ以上に、圧を感じることの方が多いのではないでしょうか。その時、私たちは自分を信頼しているのか、それとも与えてくださっている御方がいることに信頼しているのか。礼拝から礼拝への連続の中で、それぞれの生活の営みに送り出されている私たちは、その都度、何に信頼しているのかを問われます。自分が極めてからではなく、神様が見極めてくださっているからこそ安心して頼り、自由にされていく。感染症拡大の時でも、主の平安は確かに与えられているのです。

7月31日に行われる分区信徒修養会のためにZoom併用が予定され、初めてホスト(招待者)になりました。
今までは招待を受ける側でしたが、今回はじめて招待する側になりました。何時来るのか、誰が来るのか解らないまま、招待状を送った方々を待つ。Zoomの色々な機能をイタズラしながら待つ。ポツポツと誰かが来る。来ては確認して直ぐに帰っていく。入って来ない時は待ちぼうけ。入ってきたら確認。だんだん楽しくなってきました。そして未だに神様に待ちぼうけを食わせてしまっている自分自身に気が付きます。イエス・キリストという招待状を聖霊によって配り、今か今かと待ってくださっている神様。そして招待状を受け取りながらその意味が解らず、何をすれば良いのか解らず、結果、神様に待ちぼうけをさせている自分。悔い改めて方向転換をしながら神様に向かって歩もう。礼拝を献げながら歩もう。