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主にある自由
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主にある自由
「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(13節)。「統治者」である「皇帝であろうと」、「皇帝が派遣した総督であろうと」服従しなさい。それこそが「善を行」うことであり、「神の御心」だからです(14~15節)。
神のみを畏れ敬うのがわたしたちなのに、いったいなぜ、このようなことが聖書で言われているのでしょう? 主イエスの愛の戒めを思い出しましょう。「あなたの神を愛しなさい」。これが第一の掟です。その上でわたしたちは「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」との戒めに生きていきます。
ここで命じられているのは、何よりもまず神を愛すること。その上で、隣人を愛する道として「人の立てた制度に従」います。「主のために」そうするのです。
いいかえれば、神を愛し敬うわたしたちは、どれだけ「この世」を愛しているか。そのことが問われています。なぜなら、「神はその独り子をお与えになったほど、世を愛された」からです(ヨハネ3章12)。
「世」とはなんでしょうか? 世とは、神が造られた天地創造の「世界」です。エデンの園です。本来そこは楽園・神の国であるはずでした。しかし、わたしたち人間は神に背き、罪に陥りました。このため神が創造された「世界」は、罪と悪に染まり、神に敵対する「世」となりました。けれども天の父は、罪にまみれた「世」を、愛されたのです。ノアのとき洪水を起こしたのも、罪に染まった「この世」を清めて、世を「新しく」するためでした。なにより、世の終わりに救い主キリストを遣わしたのも、世の罪をすべて御子に負わせるため。十字架の上に御子をお献げになるほどに、「神は世を愛された」のです。
キリストによって罪から贖い出されたわたしたちは、御子をお遣わしくださった天の父のゆえに、わたしたちも「この世」を愛して生きていきます。
もちろんこの世は今も神に敵対しています。ですから、この世を愛して生きることには闘いがあります。愛そうとしない自分自身と戦わねばなりません。「あなたの敵を愛しなさい」。主の御言葉に従うことが、求められています。
神はキリストを通して、罪にまみれた「この世」を贖い、新しくされます。キリストが世の終わりに再び来られるのは、「この世」の「すべての支配と権威」を滅ぼし、父なる神に、この世(国々)をすべて、引き渡すためです。そのとき「神がすべてにおいてすべてとなられます」(コリント一15章24~28)。
神を敬いキリストを信じる者として、わたしたちはどれだけこの世とこの国を、愛してきたでしょうか? 国を愛すると言うのは、教会ではタブーでしょうか?
明治初期の教会で、愛国心について語った牧師がいました。植村正久という、日本の教会で指導的な役割を果たした牧師です。(東京神学大学の前身、日本神学校の創設者でもありました。) この植村が、こういうことを言っています。愛国心には三つの種類がある。一つは、国の歴史や文化、自然風土を愛する心のこと。二つ目は、国が外的に脅かされたり、国内が乱れたり、そのことを憂い憤慨する愛国心。しかしキリスト者にとって最も大切なのは、「…自分の国の罪や過ちをよく自覚し、逃げ隠れできない責任を記憶し、(他国や自国民を)蹂躙した過去を反省する…愛国心ではないか。」 「わが国の愛国心は…三つのうちどれが最も多いだろうか。…自ら国家の良心と自任し、国民の罪を嘆くのはほとんどまれである。もっとひどいのは、この種の愛国心を抱く者を国賊と非難する者すらいることである。良心を鈍らせるような愛国心は、国を滅ぼすもとである。このような(偽りの愛国心によって)国を誤らせた例は、昔も今も少なくない。」(「福音新報」第52号、明治29年)
わたしたちを苦しめるものが、この世にはあふれています。「この世」は今も神に敵対しており、信仰者にとって、憎むべき存在かもしれません。しかし聖書は述べています。16節「自由な人として生活し…神の僕として行動しなさい」。キリストを与えるほどに神が愛し、赦し、救おうとされている、それが「この世」でもあります。そして、この世界の中で、わたしたちも生き・生かされています。キリストはこの世を愛し、この世を赦し、この世のあらゆる罪を引き受けて十字架で死んでくださいました。この世の中に、わたしたちも含まれています。
それゆえ、わたしたちは、キリストによって罪から自由にされた人間として、世の救い主であるキリストと共に、「この世」を愛し抜いていきたいのです。
依然としてこの世界は、憎しみと争いが渦巻いており、神への信仰なき世界です。戦争をくりかえし、反省もせず、未知のウイルスに悩まされている世界です。この悩み多き世を愛するために、キリストは世に来てくださいました。キリストは今も、わたしたちの悩みと苦しみを、背負ってくださっています。
神は、キリストをお与えになるほどに、世を愛されました。一人でも多くの人がキリストを信じて救われるためです。ですから、わたしたち教会は、神と共に、この世を愛して生きていきます。だれかに強いられたからではありません。キリストによって罪から自由にされた僕として、この世に仕えます。だれにも妨げられることなく、世の救いのために祈ります。主にある自由のもと、信仰の証しをこの世で立てていきます。世の人々にキリストを宣べ伝えることで、この世に仕えます。それこそが、神のみを神とあがめて、世を生き抜く道。主キリストに心から聴き従って生きる、自由の道です。
2020年8月30日 聖霊降臨節 第14主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師