主のしるし
「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。」(30節)。この言葉によって、ヨハネによる福音書は「しるしの福音書」と呼ばれています。
「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。」(30節)。この言葉によって、ヨハネによる福音書は「しるしの福音書」と呼ばれています。
「まさか、信じられない!」。思いがけず、うれしいことがあって、声をあげたことがあるでしょうか。逆に「どうして、そんなことが。信じられない!」 予想もできない突然の出来事に、思わずそう叫んだ。そういうこともあります。今が、まさにそのようなときかもしれません。
「わたしは、見ました」(18節)。マグダラのマリアは、弟子たちに主イエスの復活を伝えました。しかし、弟子たちは復活の知らせを信じようとせず、家の戸に鍵をかけて閉じこもってしまいます。
二千年前のちょうどこの日、主イエス・キリストは、エルサレムの都に進んで入りました。神のご意志に従い、わたしたちの救いを成し遂げるため。十字架で命をささげるためです。日曜日にエルサレムに入ったキリストは、木曜日の夜には最後の晩餐を弟子たちと祝い、夜を徹して祈ったあと。金曜日の朝には、ゴルゴタの丘へと引き出されていきます。
わたしたちがしてきたことは無駄ではなかった。決して無駄ではなかった。そう思える人は幸いです。人生の終わりに、そのように言えたなら、その人生は、まちがいなく、神の恵みと慰めに満ちた人生といえるでしょう。
3月も半ばを迎え春分の日を間近に控えています。主は昼と夜を分け、私達の歩みも主によって分けられます。主は正しき者と悪しき者とを分ける。それを教会用語では、「裁く」と表現します。主の御業は真実です。それを人の思いから判断しても、御言葉の真理に従うことにはなりません。
レビ記16章には、イスラエルの大贖罪日について記されています。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(レビ記16章1節)。神さまが大贖罪日について告げたのは、アロンの二人の息子が死んだ直後のことでした。
「わたしたちは祈りの度に、あなたがたのこと」でいつも、神に感謝せずにはおれません。そうパウロは、テサロニケの教会の人びとに伝えました。なぜなら、教会の人びとが迫害や困難な中でも、信仰・愛・希望をもって歩んでいたからです。
「教会らしい」と言われることがあります。「教会らしさ」とは何でしょう? どういうことをいうのでしょう? 今年度の目標は「喜び、祈り、感謝~聖霊によって生きる」です。どれも教会らしさをあらわす言葉にちがいありません。
2節の直訳「もし人がその人の代価に当たる額をもって、主に誓願するときには、その金額は、二十歳から六十歳までの男子なら聖所のシェケル銀貨で50シェケル、…」。これは、この代価によって、民が主に誓願を立てることができるという主旨です。レビ記27章のテーマは、誓いです。