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主の霊によって
「主の霊によって」
わたしたちの日常生活で、色々な場で争いが起こります。我々はささいなことで腹を立てたりけんかをします。けんかを仕掛けて来る人たちは、どこにでもいます。職場、家庭、学校、コンビニやスーパー病院の待合室などでも暴言を吐いたなどの事件が後をたちません。世の中が殺伐としているからなのでしょうか。そんな我々を主はどのように御覧になっているでしょうか。
主が選ばれたイスラエルでも、例外ではありません。荒れ野の旅路といえば、わたしたちが思い出すのは民とモーセの争いです。食べ物や水の問題等、将来の生活の不安のため、民はモーセやアロンに不平をぶつける場面がしばしば出てきます。 しかし、イスラエルの民は、いつもモーセやアロンと争っただけではありません。民と民の間でも争いがおこっていたのです。今日出てくるのはその一例です。民と民のもめ事を、全てモーセが一人で解決していたのではありません。成人男性だけでも60万人いたというイスラエルで、もめ事を全てモーセ一人で裁くことはできません。そんなことをしたら、モーセもモーセの裁きを待って朝から晩まで順番待ちをする人々も疲れ果ててしまう。だから、エトロはこう助言しました。信頼できる人に、普通の事件はまかせなさい。義理の父エトロの助言によって、民の中で信頼できる人が、民の千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の長老に選ばれました。通常の事件やもめ事は、長老たちにまかせることになっていました。
この事件は、二人の男が争った単なるけんか長老に任せてもよい案件にも見えます。イスラエル人の母とエジプト人の父を持つ人が、生粋のイスラエルの人と争った。イスラエルは、他の民族とつきあわないし、他の民族と結婚しないはずなのになぜエジプト人の父親を持つ人がイスラエルの宿営にいたのか。イスラエルの民がエジプトの国を去ったとき、イスラエル人以外の種々雑多な人々も従ってきた(出エジプト12章38節)。そのような中、エジプト人の父、イスラエルの母を持つ男がいたのです。彼はモーセのところに連れてきました。
問題は、けんかの原因ではありません。争いを起こした人の父がエジプト人だからでもありません。主の名が冒涜されたから問題だったのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20章7)。問題は、十戒に拘わることでした。十戒は、イスラエルの生命線であり、イスラエルが神からいただいた最も大切な戒めです。この事件は、単なる二人の人間の争いでなく、神とイスラエルの民の契約の根幹に拘わること。だから普通の事件の様に長老たちだけで裁きを行ってはいけないと、判断されたのです。だから人々は、慎重になりました。
神を呪った男の人の名は分かりません。彼の父の名もありません。エジプトを出た時に彼の父はついて来なかったから名前がないのかもしれません。彼がどんな言葉で神を呪ったのかも分かりません。分かっていることは、彼の母はシェロミト、母の父は、ダン族のディブリです。「人々は、彼を留置して主御自身の判決が示されるのを待った。」事件は簡単に、裁定されたように見えますがそうではありません。モーセもイスラエルも主が判定されるまで待ちました。
主はモーセにお答えになりました。主はこのように指示されました。冒涜の罪を犯したものを宿営の外に連れだし、冒涜の言葉を聞いた者全員が、違反した者の頭に手を置く。それから会衆全員で石を投げる。それが主の指示でした。主は、彼が生粋のイスラエルでなかったからこんな厳しい裁きを下されたのではありません。「神を冒涜する者は誰でもその罪を負う。」神の律法は、生まれながらのイスラエル人にも、寄留する外国人にも等しく適用されました。この時は、イスラエルの中から神を冒涜する罪が取り除かれた。世の中の法は、身分の低い者や弱い人を厳しく裁かれ、身分の高い者、裕福な者には裁きが緩いことがしばしば起こります。神の律法はそうではありません。神の律法の前で、イスラエルも異邦人もない、それが本来の律法の精神です。主を呪うこと父や母に暴言を吐くことも厳しく戒められています(レビ記20章9)。これらの律法は神と人との尊厳が守られるための律法です。「目には目,歯には歯」とは、人を傷つけた者は、傷つけた分だけ傷を負わなくてはならないです。人を殺した者は必ず死の罰を受ける。なぜ殺人に厳しい裁きが下されるのでしょうか。それは人間が神がご自分の栄光にかたどって作られた存在だから人を殺した者は命を持って償われるべきなのです。これら神の律法の前では、イスラエル人も異邦人もないと主は言われているのです。
しかしその後の歴史の中で、人々は律法の精神を歪めていったのです。それは、ナボトのぶどう畑の事件です。彼は、先祖代々の嗣業の土地のぶどう畑を譲渡するようにアハブ王から要求された時断りました。それは、主が与えた嗣業の地を売ることは、主にかけて出来ないといいました。お金の問題ではなく、主の言葉を守っただけなのです。しかし彼は神と王を呪ったと罪を着られて殺されました(列王記上21章10、13)。主イエスも神を冒涜した罪を着せられて十字架に掛けられました。(マタイ26章65~66)である。人間の罪が神の律法を歪めたのです。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい。」(マタイ5章38~39)。主はこの言葉の通りご自分の正義を主張しませんでした。悪に悪を持って報いることは何の解決にもならないのです。主イエスは、兵士たちから暴力を振るわれ拷問され、祭司長達からあらゆる暴言をあびせられました。しかし主は人々に暴言を返すことはありませんでした。罵られても罵り返さない主の姿に世の人々は躓きました。主イエスが、神に見捨てられてこのようになっていると思っていました。
わたしたちの時代も争いや暴言が繰り返されています。声の大きい者、相手をへこませるほど暴言を吐く人が勝利者のように見られます。神は、そのように殺伐としたわたしたちの姿を喜ばれないでしょう。人をへこませる知恵は主からでたものではありません。わたしたちが色々な場面で口にする暴言は、結局、単に人に対してではなく、主に向かって暴言を吐くに等しいのです。
「主の霊によって語る人は、『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです。」主に倣う者は、神も人も呪いません。主を賛美し、人々の赦しを祈ります。最初の殉教者ステファノも自分に石を投げる人々の罪が赦されるよう祈りました。主は、わたしたちが善い実を結ぶことを願っておられます。「義の実は平和を実現する人たちによって、平和の内に蒔かれる」(ヤコブ3章18節)。主に倣う人々に、主は義の実を結ばせ御業を成就してくださるでしょう。
(説教者:堀地敦子牧師)