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祝福と呪い
祝福と呪い
レビ記26章のテーマは、祝福と呪いです。「あなたたちは偶像を造ってはならない。…わたしがあなたたちの神、主だからである。」(レビ26章1節)。唯一のまことの神のみを神とする、そこに命と祝福があります。これはイエスの最後の晩餐の言葉とも一致します(ヨハネによる福音書17章3節)。
祝福も呪いも、イスラエルの民全体に拘わるものです。神がイスラエルの民全体と結んだ契約関係に我々の命がかかっているのです。神はアブラハムを選ばれたとき「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12章3)といわれているからです。キリストの降誕は、民全体に与えられる大いなる救い喜びだったのです(ルカ2章10)。
「あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時期に応じて雨を与える」(レビ26章3節)。イスラエルが神の掟に従って歩むなら必要な時期に必要なだけの雨が降ると、主は約束されました。「時期に応じた雨」とは、一言で言えば、気候の安定です。雨の季節に雨がふること、聞こうが安定すること。これらのことを、わたしたちはつい最近まで当たり前だと思ってきました。しかし、今世界の国々で、異常気象の影響がいます。山火事が続いて絶滅の危機に晒されている生き物たちもいます。
神は、気候を安定させ、「それによって、大地は作物を実らせ、野の木は、実を実らせる。」(4節)。穀物の収穫からぶどうの収穫、次の年の種蒔きに至るまで、農夫たちの全ての働きを祝福し安定した暮らしを約束します。「あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。」(5節)。「前年の穀物を食べ尽くさぬうちに、…、新穀を倉に収める」(10節)。種籾を取り分けておいても、安心して暮らしてゆける。畑に泥棒が来てなどに収穫物を略奪される心配もしなくてよいのです。
ギデオンの時代は、隣国ミディアンの盗賊が来て、イスラエルの畑の収穫物を根こそぎ奪われました。(士師記6章3~4、11節)。「敵を剣にかけて滅ぼす」 (7節:士師記7章)。外敵が大勢で攻撃してきても確実に勝つことができる。5人で百人の敵に勝ち、百人で一万の敵に勝つことができる。主は、イスラエルのためにギデオンを遣わし、群がる敵に勝たせてくださいました。猛獣たちが襲って畑を荒らしたり、家畜が襲われたり人々が傷つけられることも無いのです。
11~13:「わたしは、あなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはしない。」(11節)。神の臨在の約束です。恵みの雨も、豊かな収穫や平和と安全も大切です。それらの目に見える祝福を支える土台は、神がわたしたちの中に臨在されることです。「わたしは、あなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」(12節)。神がわたしたちと共にいて、わたしたちのただ中を歩まれる。それこそが祝福です。エデンの園での暮らしはまさにそのようなものでした。それがどうしていまそうなっていないのでしょうか。それは、わたしたちが神を捨てたからです。
「わたしの掟を捨て、わたしの法を捨て、何一つわたしの戒めに従わず、わたしの契約を破るなら、わたしは必ずあなたにこうする。すなわち、あなたたにちの上に恐怖を臨ませ…」。わたしたちが神の言葉を捨てる時、全ての祝福が奪われ、呪いに代わります。「何一つ主の戒めに従わず」といわれると、ここまでわたしたちは神に逆らったことがあるだろうか?そこまでわたしたちは、ひどくないと思います。わたしたちの心が鈍いから、自分たちの罪が分からないのです。「わたしは顔をあなたたちに向けて攻める。敵に踏みにじられ追う者もいないのに逃げ去らねばならない。」(17節)。主に背いたわたしたちは恐怖に支配されて実体もない恐怖におびえるようになるのです。
「このような目に遭ってもまだ、わたしの言葉を聞かないならば、わたしは、七倍の罰を加えて懲らしめるといわれます。主の懲らしめは、民を立ち返られるためです。主は御自分の民を愛し、彼らの愚かな道から立ち返ることを願って来ました。しかし、イスラエルは神の懲らしめを理解しなかったのです。わたしはあなたの強い誇りと力を撃ち砕く…それゆえあなたたちの努力は虚しく、地に作物は実らず、地上の木に実はならない(19~20節)。
もしわたしたちが主に背いて努力したとしても、主は祝福してくださらない。主に祝福されない努力は虚しいものです。主は、わたしたちが小さいこと、誇るべきは主のみだと教えているのです。本当に信頼すべきなのは神のみであり、希望は主にあるのです。「神は高慢なものを敵とし、謙遜なものに恵みをお与えになる」(ヤコブ4章6)かたです。
「わたしは、あなたがたの間に野獣を放つ。野獣はあなたたちの子供を奪い取り、家畜を滅ぼし、あなたたちの数を減らす」(22節)。ここにあるように野生動物による被害が、イスラエルの崩壊期にありました(列王下17章25)。現代でも、野生動物が人里に来て、被害が出たというニュースがあります。環境の変化で動物たちが野や山で食べ物がなくなって人里に降りた為だと言われます。現代のわたしたちが、神に逆らって自然を乱用したので野生動物たちによる被害が出ているのかもしれません。
イスラエルが神に背き続けた時代に、人々は戦争や疫病や饑餓など様々な恐怖に脅かされるようになりました(23~26)。圧倒的な数の敵に打ち勝っていたイスラエルが木の葉の音にもおびえたり、追う者もいないのに逃げるようになったのです。民が神を捨てたからこうなったのです。最終的にイスラエルは、アッシリアとバビロンの手で滅ぼされて捕囚になりました。
神さまは、エデンの園に人間を造られた時から、祝福と呪いをわたしたちの目の前に置かれました。エデンの園の中央に、“命の木”と“食べると必ず死んでしまうという“善と悪を知る知識の木”を植えられました。人間が最初の選択で選んだのは、死をもたらすものでした。
しかし神はイスラエルを滅ぼして終わりにしません。異邦人のわたしたちのことも見捨ててはいません。
イスラエルも異邦人のわたしたちは、いつも神に逆らい、自分の罪を忘れ、神の恵みも忘れました。「もし彼らが…反抗した罪を告白するなら、…罪の罰を心から受け入れるならば、ヤコブとのわたしの契約、イサクとのわたしの契約、更にアブラハムとわたしの契約を思い起こす」(40~42節)。主がわたしたちに求めるのは、打ち砕かれた心、罪を心から悔いて神に立ち返ることです。しかしわたしたちは、心をかたくなにしました。イスラエルも異邦人もそうでした。荒れ野で神に逆らい、約束の地で偶像をつくりました。バビロン捕囚にあっても、捕囚から帰ってきても人々は、神を神とせず自分たちの努力や功績を誇って来ました。主イエスが地上に来られた時にも、イスラエルの人々は、徴税人や異邦人たちを見下し、差別をして来ました。だれも彼もが神に背き悔い改めようとしなかったのです。
唯一人、心から神の裁きを受け入れた方は、罪のないキリストでした。主イエスがわたしたちのために神の罰を受け、執り成し、神を宥めるために御自分の命を献げてくださったのです。イエスと共に十字架にかけられた罪人が祈っています。主イエスの祈りによってわたしたちは神の前に立ち返る道が開かれたのです。主イエスと共に十字架にかけられていた犯罪人は言いました「イエスよ、あなたの御国においでになるときはわたしを思い出してください」(ルカ23章42)。キリストによってわたしたちは神に思い出していただき、救いの契約の入れ手いただくのです。神の側にいることができます。神の招きと祝福が変わらないものだとキリストによってわたしたちは知らされるのです。
(説教者:堀地敦子牧師)