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さあ、手を伸ばして
主の平和
「まさか、信じられない!」。思いがけず、うれしいことがあって、声をあげたことがあるでしょうか。逆に「どうして、そんなことが。信じられない!」 予想もできない突然の出来事に、思わずそう叫んだ。そういうこともあります。今が、まさにそのようなときかもしれません。
キリストの弟子の中にも、「信じられない」。そう口にする者がいました。トマスです。トマスは、大事なとき、そこにいませんでした。仲間と共にいることができませんでした。
ちょうど一週間前の夕べのことです。弟子たちがユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけ、閉じこもっていたときです。この日の朝よみがえられたキリストが、弟子たちの真ん中に立ち、「平和があるように」と仰せになりました。手とわき腹をお見せになって、弟子たちを恐れから、主が解放なさいました。そこにいた弟子たちは皆、喜びにあふれました。
でも、トマスだけがそこにいませんでした。なぜいなかったのか?理由はわかりません。聖書には、「イエスが来られたとき、仲間と一緒にいなかった」とあるだけです。
このトマスに、仲間の弟子たちが伝えます。「わたしたちは主を見た」。「わたしも主を見た」。主はよみがえられたのだ! 皆、目を輝かしながら、生けるキリストと出会った喜びをトマスに語ります。熱を帯びて、伝えます。
しかしトマスから返ってきたのは、「信じない」の一言でした。「そんなこと信じられるか!」 十字架に付けられたとき、あの方の手にできた釘の跡をこの目で見なければ、槍で突き刺されたわき腹の傷に、この手を差し入れてみなければ、「わたしは決して信じない」。
トマスがそう言い放ってから一週間経った夕べ、キリストが再び弟子たちに現れました。今度はトマスも一緒にいます。
「あなたがたに平和があるように」。前と同じようにそう言われたキリストは、トマスの方を向いて語りかけます。「さあ、あなたの指をここに当て…、手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい」。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスのすべてを、キリストはご存じでした。「信じられるか!」 そう言い放ったトマスの言葉も、トマスの心も、キリストは全部聞き取っていたのです。それで、おっしゃいます。「トマスよ、あなたの願いを聞き入れよう」。「さあ、手を伸ばして」。「わたしに触りなさい」。
トマスは答えました。「ああ、わたしの主、わたしの神よ」。おそらく、主イエスの前にひざまずき、ひれ伏したのではないでしょうか。キリストを礼拝しました。あれほど疑い深く、仲間たちにも背を向けたトマスが、復活したキリストを見て信じたのです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。主イエスの言葉は、トマスを責めているようにも聞こえます。しかしこの言葉には、こういうニュアンスも込められています。「わたしを見て、ようやく信じるようになったか」。主は、トマスが心を翻して、信じない者から信じる者となっていく、その姿を喜ばれました。復活の主を、ようやく信じ始めたトマスに、キリストはおっしゃいます。「見ないで信じる者は、もっと幸いである」。
これこそ、主キリストがなさった牧会です。キリストを信じられなくなったトマスに、主は自ら姿を現し、十字架の傷をお見せになりました。「さあ、ここだ。ここにあなたの指をあててみなさい」。キリストの傷、そこは、わたしたちのため、世の罪を償うため、キリストがもっとも痛みを味わった場所です。その場所を示すことで、信じない世界から信じる世界へと、キリストがトマスを導き入れました。しかも、そこで終わりではありません。さらなる信仰の深み、すなわち、見ないで信じる信仰へと、さらにトマスを導こうとされます。
ようやく信じ始めた、よちよち歩きの信仰者トマスを、さらなる信仰の高みへ導こうとされる。羊飼いキリストは、今も、わたしたち教会を、このように牧会し養ってくださっています。
それにしても、トマスはなぜ、あそこまでかたくなに、信じることを拒んだのでしょうか? よく言われるのは、トマスは現代で言う科学的精神の持ち主だから。指を入れ、自分の手で触れて確かめてみないと納得しない。わたしたち現代人の姿を先取りしている。そんなふうにも言われます。でも、はたしてそれだけだろうか?とも思うのです。合理的精神の持ち主ならば、反対に、仲間の弟子たちが皆揃って、「わたしは主を見ました」という証言の重みを少しは考えないでしょうか。
「信じない」とトマスが言い張った理由がもう一つあるとすれば、それは「仲間はずれにされた」ことです。と言っても、他の弟子たちがトマスを仲間外れにしたのではありません。トマスは、自分で自分を仲間外れにしてしまったのです。
「なぜ、わたしがいないときにかぎって、キリストは、仲間たちに姿を現したのか?」。わざわざ私がいないときを選んで? まさか? しかもイースターから8日経っています。次の日もまた次の日も、どんなに待っても、イエス様はわたしのところに来てくれない。ほかの仲間たちは、「主はよみがえられた」といって喜んでいるのに…。信じられない。キリストなんか信じられない。いや信じるものか! トマスの疑いは、主の復活を信じるかどうかを越えて、救い主キリストその方を信じられなくなった。そういうことでは、なかったでしょうか。
でも、キリストは、トマスのことを忘れていません。見放してもいません。今度はトマスも一緒にいる。そのときを選んで、もう一度キリストは、弟子たちの群れの中に来てくださいました。復活の主は、弟子たちが集まっているところに、姿を現すのです。つまり教会です。わたしたちが今集っている教会が、まさにそのような場所です。礼拝こそ、主キリストがわたしたちの真ん中に立たれる、そのようなときなのです。礼拝の時と場所は、わたしたちが選んだのではありません。キリストがこの時と場所を定めて、わたしたちを呼び集めてくださいました。主が選び集めたこの集い・教会の真ん中から、キリストが、わたしたちに語りかけてくださっているのです。このことを、「見ずに信じる者は幸い」です。
「後の教会」すなわちわたしたちは皆、「キリストを見たことがないのに愛しており、今見なくても信じて」います。すべては聖霊の導きです。それゆえわたしたちは、「言葉では言いつくせない、すばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロの手紙一1章8節より)。
この目でみて、キリストの傷跡に手を入れてみなければ信じない。そう言うトマスに、主はご自身に触れることを許しました。しかしトマスは、いっさい手を触れることなく、キリストを見て、信じました。
キリストに手で触れることこそありませんでしたが、でもトマスは、最終的にキリストに触れることができたのだと思います。「さあ手を伸ばして!」 そう呼びかけるキリストの手、よみがえったキリストの手が、トマスの心に触れたにちがいありません。だからこそ他の仲間と一緒に、「わが主よ、わが神よ」とキリストに信仰告白をささげることができました。今このとき、わたしたち教会にも、同じ手が差し伸べられています。思いがけない出来事に心騒ぎ、疑い迷い、揺れ動くわたしたちの心に、飼い主キリストがその手で触れてくださっています。
この手は、わたしたちだけでなく、日本そして世界全体を、抱え、包み込んでくださっています。このことを信じましょう。愛する兄弟姉妹のために、日本・世界中の教会のため。さらに神が造られたこの地球に生きるすべての人びとのために、とりなし祈るわたしたち教会でありますように。
(説教者:堀地正弘牧師)