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わたしたちの味方(音声あり)

イザヤ書53章12節、ローマの信徒への手紙8章31〜34節
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主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

わたしたちの味方

わたしたちの、本当の味方はだれか?常にそれを考えながらわたしたちは生きています。

31:「もし、神がわたしたちの味方であるなら」主がわたしたちの味方である。それこそが本来、あり得ないことです。何故なら、わたしたちは、神の敵だったからです。しかし、主は御自分の敵であったはずのわたしたちの味方です。

だから、いかなる危機が襲ってもわたしたちの救いは揺るぎません。キリストゆえに神はわたしたちの味方です。神は、あらゆる善いものをわたしたちのために備えてくださるのです。

32:「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず与えた方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないでしょうか。」

神が御子を与えたということは、全てを与えてくださったも同然です。神はわたしたちにすべてを与えてくださいました。神からいただかなかったものはありません。

アブラハムがイサクを奉献した出来事を思わせます。主は、アブラハムに言われました。「あなたの愛する独り子イサクをささげなさい」(創世記22章2)。アブラハムは、悩みました。神さまが、イサクを与えられたのに、そのイサクを何故、献げよといわれるのか。

アブラハムがイサクを献げようとした時、主はアブラハムを止めました。「その子に手を下すな。何もしてはならない」と。見回すと茂みに一匹の羊が角を取られていました。その羊が、イサクの代わりに献げられます。主は、アブラハムにこういわれました。「あなたは、自分の独り子である息子すら惜しまなかった」(創世記22章12、15)。神さまは、アブラハムにイサクを返してくださいました。それは、死者の中から返してもらったも同じです。彼は神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたからです(ヘブライ11章17~19)

神さまは、アブラハムからいけにえではなく信仰を受け取りました。

33:「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」。

世界中で感染症が流行している中で、浮き彫りになったことは世界の分断です。国と国の間も互いを非難し訴えています。人は、互いに他人の罪の責任の追及に明け暮れています。もしかすると、クリスチャンも例外ではないかもしれないのです。主が選ばれた者たちが訴えられることもよくあることです。ユダヤの指導者たちは、主イエスの弟子たちのことであれこれと訴えました。手を洗わないで食事をしている。弟子たちは、どうだったのでしょうか。主イエスに香油を注いだ女のことを「なんと無駄遣いをするのか」と訴えました。人の失点を数えたり、非難したくなる心はだれもが持っています。世界中の人々が他人を訴えるものになりえます。

姦淫の現場から引きずり出された女が主イエスの前に連れてこられました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法で命じています。あなたはどうお考えですか」(ヨハネ福音書8章5)。主は、地面に何かを書き続けて、すぐに返事をしませんでした。彼らの本音は主イエスを訴える口実のためだったからです。人々が、しつこく問い続けるので、主イエスは言われます。「あなたがたの中で罪を犯したことのないものが、先ず、石を投げなさい」。これを聞いた者は年長者から始まって一人また一人と去って行きました。彼女を訴える者たちは一人残らず去りました。だれも石を投げることはなく。だれも彼女を罪に定めることはできませんでした。それどころか、人を罪に定めようと、訴えるものは主の前から退けられたのです。この出来事は終末的であります。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかしもし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6章14)。人を赦さない者は、主の前から退けられてゆく以外ないのです。

訴えるものたちがすべて去った時、主イエスは言います。「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ福音書8章11)。主イエスが来られたのは、わたしたちを裁くためではなく、訴えるためでもなく、救うためです。主イエスが今神の右におられるのは、わたしたちのためにとりなしをするためです。「人を義としてくださるのは神なのです。だれが、わたしたちを罪に定めることができましょう。」。主イエスのとりなしのゆえに、神はわたしたちの味方です。

2020年6月14日 聖霊降臨節第3主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師