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主を仰ぎ見る

民数記12章2~13、ヨハネによる福音書16章25~30
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主を仰ぎ見る

荒野を歩むイスラエルに、再び事件が起こりました。モーセに対する不平不満を、モーセの兄アロンと姉であるミリアムが、公然と口にし始めたのです。

アロンとミリアムの言い分は、二つです。一つは、モーセが異邦人クシュの女性を妻にしたことです。たぶんこれは口実です。このことをきっかけに、アロンとミリアムは、もっと大きい訴えをします。2節「主はモーセを通してのみ、語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」。なぜ神は、モーセだけと語り、モーセを通してだけ民に語りかけるのか。わたしたちだって、預言者ではないか。モーセの指導性と権威に、異議をとなえました。

この訴えに、神様が答えます。なぜわたしは、モーセとだけ語り、モーセを通してのみ、民に語りかけるのか。それは、「地上のだれよりもまさって、モーセが神に対し謙遜である」からでした。モーセを選んだ理由を、神自らそう語るのです。

神がモーセを選ばれたのは、人をまとめていく指導力があったからでも、言葉にすぐれていたからでもありません。かつて出エジプトの救いの御業を始めるとき、神に選ばれたモーセが、こう神に答えています。「わたしは口が重く、舌の重い者なのです」。「だれかほかの人を見つけて遣わしてください」(出エジプト記4章10~13より)。

モーセに答えて神は言われました。「あなたには兄弟アロンがいる。…彼が雄弁なことを知っている。…彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。」(同14~15節)。

それ以来、モーセとアロンは常に二人三脚で、イスラエルをエジプトから導き出すために働きました。ファラオと交渉を続けました。モーセに授けられた神の言葉を、アロンが民に伝える。出エジプトという神の偉大な御業の中で、二人はそのように用いられたのです。それが、今になってなぜ、アロンとミリアムはこのような挑戦をモーセに向かって始めたのでしょうか? ある人は、これはアロンとミリアムの嫉妬ではないか、と言います。モーセばかりが、神の前に立ち、民の前に立って、神の言葉を語り、民をとりなし祈っている。皆の注目や尊敬が、モーセだけに集まっている。それがおもしろくなかったのではないか、と。

むしろわたしは、こう思います。二人は、もっと神に認められたかった。兄と姉にしてみれば、弟モーセばかりを神が尊び、愛し、用いられる。自分たちだって、もっと神に認められ、尊ばれ、用いられていいではないか。あの頼りない弟よりも、私たちの方が、よほど信仰も、民を率いる力だってあるはずなのに…。このような欲求に身をまかせていけば、兄弟の交わり、ひいては共同体の交わりが破壊されていくことは必至です。

二人の訴えに、神様は答えます。モーセほど、わたしの前で謙遜な者はいない。だからこそ、モーセは神の民に信頼されているのだ。モーセほど謙遜で、神を畏れ敬う者はいない。だからわたしは、モーセを選び、顔と顔を合わせて語り合うのだ。このことをお前たちは、どう思うのか? そうアロンとミリアムにそう問いかけられました。

自分たちは神にもっと認められたい。イスラエルの民にもっと尊敬されるべきだ。アロンとミリアムはそう思っていた、といいました。しかし二人が思っていたように、神は本当に二人を尊んでいなかったのでしょうか? 決してそうでなかったことが聖書からわかります。たとえば2節で二人がモーセのことで神に訴えると、「主はこれを聞かれた」。神は二人を無視するどころか、二人の言い分をきちんと聞かれます。そしてなぜモーセを立てたか、その理由を自ら二人に言って聞かせます。また4節では、モーセとアロンとミリアムに向かって、「三人とも、臨在の幕屋の前に出よ」と、主なる神はおっしゃいます。主が雲の柱のうちに降ってこられると、神は幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」の二人だけを呼び出します。

神様は、アロンとミリアムを軽んじてなどいません。むしろ、モーセと同じように、二人を愛し、尊び、雲の中から二人を御前に呼び寄せ、親しく語っておられます。アロンもミリアムも、神に選ばれた預言者なのです。その中でも、神はモーセを選び、アロンとミリアム、イスラエルの民の上に立てました。モーセを支える二人の大切な預言者として、アロンとミリアムは神に立てられています。内気で、どこか頼りないモーセにとって、実の兄と姉が、同じ神の預言者として共に歩んでくれる、共に闘ってくれる。これほど心強いことはなかったでしょう。このことは三人の兄弟姉妹だけでなく、イスラエルの共同体全体にとって、神の暖かい恵みの配慮だったにちがいありません。

ですからモーセにとって、兄と姉が自分のことでいらだちを募らせ、神に訴えている。モーセはつらかったと思います。生まれてまもないモーセの命を、機転をきかせて救ったのは、姉のミリアムでした。エジプトにいたとき、心を合わせてファラオと対峙し、イスラエルの民から不平不満の的とされても、共に耐え忍び歩んできたのが兄アロンでした。

兄と姉の訴えに、モーセは一言も口を開きません。答える言葉がなかったのだと思います。兄と姉の言うとおりだ、わたしは決してふさわしくない。神に選ばれたあのときから、今に至るまで、モーセは心底そう思っていたのでしょう。だからこそ神は、モーセを選びました。神への畏れにあふれ、その思いを決して失わない。わたしは神の預言者には決してふさわしくない。だからこそ神に望みを置き、神にだけ頼って歩む。モーセはどのようなときも、「神を仰ぎ見て」生きてきました。自分の中には語るべき言葉は何も持たない。だから神の御言葉を心から求め、主がお与えになった言葉だけを誠実に宣べ伝えます。そして、罪を犯した者たちのために、神にとりなし祈ります。

モーセの中に神が見出された「謙遜」とは、このような神への従順、愛、信頼です。主を尋ね求め、主を賛美して生きる姿。神を喜び、神の義を行う。十字架の死に至るまで神に従順であったキリストにも通じる、神への誠実です。「主を仰ぎ見て」生きる。この生き方を、モーセは貫きました。そのような信仰者、このような者たちの群れを神は喜ばれます。

2020年11月22日 聖霊降臨節 第26主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師