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教会を建て上げる

エレミヤ書31章1~6、テサロニケの信徒への手紙一5章11~22
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教会を建て上げる

「現に」、今「そうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。

互いに「励まし合いなさい」。くりかえしパウロは、テサロニケ教会の信徒たちに、そう呼びかけ、励まします。キリストを信じ、主の再び来られるのを待ち望む教会は、どんなときも、常に、互いに励まし合う教会です。

励まし合い、「お互いの向上に心がけなさい」。こう訳された言葉は、もともと、こう書かれています。「互いに励まし合い、そして徳を建てなさい」。「教会の徳を建てる」、「建徳的でありなさい」、そう言われています。「徳を建てる」というと、どこか道徳的な響きがします。しかし、もっといえば、これは、「建物の土台を据える」、「建て上げる」とか「建て直す」という言い方なのです。

新約聖書は、教会を建て物にたとえます。たとえば、「わたしは…熟練した建築家のように(教会の)土台を据えました。…イエス・キリストという既に据えられた土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(コリント一3章10~11)。あるいは、「あなたがたは…神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身で」す(エフェソ2章19~20)。「キリストにおいて、この建物全体(=教会)は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」(同21節)。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(同22節)。

もちろん、教会はただの建物ではありません。教会はキリストの体です。イエス・キリストに召され、聖なる者とされた群れ、キリストに養われる羊の群れこそ、教会です。その教会を、あえて建物にたとえているのです。こうした言い方は、イエス・キリストの御言葉に基づいています。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16章18)。

キリストこそ、わたしたちをご自身の体として建て上げてくださる、教会建設者そして設計者です。キリストの御言葉と御心を抜きに、教会を建てていくことはできません。「教会の徳を建てる」、「キリストの体としての教会を建て上げる」。そういわれると、まるでわたしたちが自分で教会を建ててよいのだと錯覚しそうになります。しかし聖書は、教会を教会として建て上げるのはキリストご自身であり、また聖霊なる神である。このことを一貫して語っています。キリストが御自分でご自身の教会を建て上げていかれる。主ご自身の聖なる業に、わたしたち信仰者は招かれているのです。

昔のユダヤでは、建物はどれも石造りです。その後のヨーロッパの教会も、やはり石を積んで教会の建物を建てていきました。いわば道端に打ち捨てられていた、わたしたち罪人という石を、キリストご自身が拾い上げ、ご自分の上に積み上げてくださっています。十字架と復活の主キリストによって、わたしたち一人ひとりは、キリストの体の一部として建て上げられています。キリストによる教会建築は、今も世界中で続いています。

世の終わりまで、わたしたちは、キリストによって、教会として建て上げられていきます。このことを、パウロは、具体的にこのように表現しました。

「あなたがたの間で」日々労苦して、あなたがたを教え「導いている人々を重んじ」なさい。「心から尊敬しなさい」(12~13節)。「互いに平和に暮らしなさい」(13節)。これこそ、キリストの手によって、教会が建て上げられていくことにほかならないのだと。さらにパウロは、こう続けます。「兄弟たち」、祈りや礼拝や聖書の言葉に養われるなど、信仰と愛の業を「怠っている者たちを戒め」、励ましなさい。「気落ちしている」人がいたなら、見過ごしにせず、「励まし」てあげなさい。「弱い人たちを助け」、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」。教会の人たちだけでなく、すべての人びとに対して、「善を行いなさい」。どんなことがあっても、「悪に対して、悪をもって報い」てはなりません。

これらはみな、イエス・キリストに、みられるものです。わたしたちが気落ちしていたとき、キリストがなぐさめ、励ましてくださいました。罪の大きさに押しつぶされそうになっていたとき、わたしたちのためにキリストが十字架にかかって、罪の重荷から解放してくださいました。キリストを十字架につけたのはわたしたちなのに、キリストは悪をもってわたしたちに報いることなく、かえってわたしたちの罪が赦されるように切に祈ってくださいました。わたしたちの罪を、キリストのゆえに、父なる神はどこまでも忍耐し、今も赦してくださっています。

だからわたしたちも、赦し合い、助け合い、互いを忍耐し、励まし合って生きていきます。教会を建てる、教会がキリストによって教会として建て上げられていく。それは、キリストがわたしにしてくださったことを、その通り、すべての人に行っていくことにほかならないのです。

こうして手紙は、有名なあの言葉へとつながっていきます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。これは、キリストによって教会へと建て上げられていくことの喜びであり、祈りであり、感謝です。世の終わりに向けて、きずもしみもない、完全な神の建物へと建て上げられつつあるわたしたちの、喜び・祈り・感謝です。どんなときにも、キリストに赦され愛されている喜びが、教会には常にあります。主がわたしたちのために、今も祈ってくださっています。このことを感謝し、どんなにつらいときにも、神を喜び、神に祈り、主への感謝に生きていくことができます。

喜び、祈り、感謝こそ、キリストに向かってわたしたちを建て上げる、神の恵みの賜物です。再び来られるキリストを迎えるときまで、教会が追い求めていくべき目標です。互いを尊び、互いに助け合い、すべてを忍び、互いを信じ、共に望み、すべてに耐える。

日々わたしたちに起こることは。どれもみな、終わりの日、キリストの教会へと建て上げられていくための、栄光に満ちた道なのです。

「どうか、平和の神ご自身が」、終わりの日に、わたしたちを「全き者」「聖なる者としてくださいますように」(23節)。

2020年12月6日 待降節 第2主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師