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主を喜び祝う

ネヘミヤ記8章4~12節、フィリピの信徒への手紙4章4~6節
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主日礼拝説教

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主を喜び祝う

第七の月になると民は水の門の前の広場に集まっていました。モーセの律法の書の朗読を聞くためでした。モーセの律法の書とは、創世記から申命記、旧約聖書の最初の5つの書のことです。それは何本もの巻物に書かれていました。

「書記官エズラは、この日のために用意された木の壇上に立ち」(4節)ました。

「皆が見守る中で、その書を開いた。彼が書を開くと、民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』」と声を合わせ、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。」(6節)

イスラエルは、不信仰に陥り捕囚となりました。しかし、イスラエルが神を忘れても、神がイスラエルを忘れることはありませんでした。人々が、捕囚から帰還出来たのも、エルサレム神殿と城壁を修復できたことも、すべては神の恵みです。

人々は両手を広げ、アーメン、アーメンと繰り返したのは、主が聖書の御言葉を通して民に現れて下さるよう切に願ったからです。みな顔を地に伏せ、へりくだって神を礼拝していました。

「…レビ人がその律法を民に説明した」(7節)。律法の書は、イスラエルで長く顧みられませんでした。イスラエル・ユダの歴代の王の中で律法を大事にしたと聖書に書かれた王は二人です。一人は、ヨシヤ王(在位:紀元前640~609)の在位18年目に律法の書が発見されました。王は律法が読まれるのを聞いて、衣を裂き悔い改めます(列王記下22章)。もう一人はヨシャファト(在位:紀元前870~848)です。彼はイスラエル全体に主の律法を教えようと努力しました。そのために祭司やレビ人たちの助けを借りたのです。「祭司エリシャマとヨラムがレビ人に同行した。彼らは律法の書を携え、ユダで教育を行い、ユダのすべての町を巡って民の教化にあたった」(歴代誌下17章9)。

この二人の王の時代は例外的だったのかもしれません。多くの時代イスラエルでは、律法は顧みられませんでした。律法が朗読されることも、レビ人や祭司が人々に律法の解き明かし、聖書の御言葉を皆が理解できるように助けることなど長い間行われて来なかったといわれます。バビロン捕囚の期間も、イスラエルには主を礼拝する自由はなく、律法の言葉を聞く機会にも恵まれないでいました。捕囚の間イスラエルの人々は、母国のヘブライ語を次第に忘れ、母国の言葉で書かれた聖書が読まれても理解が難しかったのかもしれません。そんな人々を助けるため、レビ人たちが活躍したのです。イスラエルの再興は、イスラエル全体が御言葉を聞いてよく理解し、それを信じて従う信仰の復興によるものでした。

「総督ネヘミヤと祭司であり書記官であるエズラは律法の説明にあたったレビ人と共に、民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。」(9節)。人々が嘆き、泣いていたのは、律法の言葉を理解していたからです。律法は、わたしたちに自分の罪をきづかせます。人々は罪を深くなげき泣いていました。罪を嘆くことは大事です。「打ち砕かれ悔いるこころを主は侮られる事はありません」(詩編51編19)。

エズラ達は人々にました。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのないものには、それを分け与えなさい。今日は、主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(10節)。悔い改めも自分の罪を悲しみ嘆くこともだいじです。悔しかし、主を信じるなら悲しみにうずくまったままではいけない。主は、罪を犯したイスラエルを赦し捕囚から解放された方、わたしたちの罪を赦す方だからです。だから共に主を喜び祝おう、祝いの食卓に共に与ろうとエズラは呼びかけました。人々は、エズラに言われたとおりにしました。「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのないものと分かち合い、大いに喜び祝った。」(12節)。

「良い肉と甘い飲み物」とは一体何でしょうか?「(すべての肥えた肉)脂肪と血は決して食べてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである」(レビ記3章17)。ここで言う良い肉と、レビ記で食べることを禁止されたものが同じなのか、違うのか?どちらともいえません。「良い肉を食べ、甘い飲み物を…」エズラの言葉から、主イエスのある言葉を連想します。「わたしの肉を食べ血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6章54)。主イエスの言葉に人々はつまづきました。主イエスの肉を食べるなどあり得ないし、血を含んだ肉を食べることは、律法で禁じられています。主イエスがこう言われたのは、御自分の生涯の最後を思ってのことです。主は、罪人の手で十字架を掛けられる。わたしたちの罪の赦しの為、自身の肉を裂かれ血を流すことを言っていたのです。キリストの体と血に与るとき、キリストはわたしたちの内に深く臨在される。主の御言葉と聖餐に養われて生きる後の教会の姿は、捕囚から解放されて主を礼拝する民の姿に現されていたのです。聖餐式は、わたしたちの為に命をささげ十字架かかり、復活なさった主を祝う日です。

あの時も「用意のない者たち」がいました。貧しかったからか、それとも他に理由があったのか…。前もって準備の出来なかった人々とも分かち合って、主を喜ぶ祝うの食卓に与りました。今もわたしたちの周りに、主を喜び祝うための準備がない人々がいます。主イエスを喜ぶ信仰の準備がまだ出来ていない人々がいます。その人たちも、わたしたちと共に主を喜び祝う日が来るように教会は今も世に遣わされています。だから教会は、いつも御言葉を携えてこの世に遣わされているのです。

2021年1月31日 降誕節 第6主日礼拝 説教者:堀地敦子牧師