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喜びを捨てて
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喜びを捨てて
あらゆる「重荷」と「絡みつく罪を」すべて「かなぐり捨てて」、「定められ」た競走を忍耐強く「走り抜こう」ではないか。
ここでいう「競走」とは、それぞれに与えられた信仰の道のり・人生のことです。あたかもマラソンなど長距離レースのように、どんなことがあってもあきらめず、力を落とさずに、最後まで走り抜くことが求められています。どんなに早く走っても、途中でやめてしまったら意味がありません。人と比べて、早いかおそいかは問題ではありません。信仰は、救いの道を最後まで歩み通す。終わりの日に、備えられたゴールを切る。そこに値打ちがあるのです。
ではどうしたら、最後まで、信仰のゴール、救いが完成される日まで、この道を走り通すことができるでしょうか? その答えが、イエス・キリストです。どんなときにも、キリストを見つめて歩むなら、そこに力が生まれます。聖書はイエス・キリストのことを、「信仰の創始者また完成者」と呼んでいます。キリストこそ、信仰のスタートでありゴールです。わたしたち信仰者にスタートを与えたのはキリスト、輝かしいゴールを迎えさせてくださるのもイエス・キリストただおひとりです。
聖書が証ししているとおり、信仰の創始者また完成者であるイエスを「見つめて」歩むなら、最後までこの道を走り通すことができます。どんな人も、必ずゴールに、たどり着くことができます。信仰を歩み始めたときも、歩みつづけている今も、力はすべてキリストから来ています。世の終わりに救いを完成させてくださるキリストこそ、われわれが最後まで信仰を歩み通すため、なくてはならない唯一の力です。今もキリストが、わたしたち信仰者の力、教会の力となってくださっています。
では、どのようにしてキリストは、わたしたちに「力」となってくださるのでしょう。2節:「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわずに十字架の死を耐え忍」ばれました。キリストは、御自身の前にある喜びをかなぐり捨てて、十字架の上で苦しみと恥を受けてくださいました。そうやって、わたしたち罪人の受けるべき裁きを、代わりに受けてくださいました。罪のない神の御子でありながら、罪人の一人に数えられ、ひときわ高い十字架に釘付けにされ、罪人たちと共に葬られました。われわれ人間の罪を、死をもって償うことが、キリストには求められていたからです。罪人たちが、束になってキリストに反抗しました。それらの苦難をすべて、ご自分に定められたものとして、キリストは耐え忍ばれました。不名誉な死をも受け入れていかれました。それゆえ、父なる神は、このキリストを高く上げ、天におられる父の右の座に座らせたのでした。
わたしたちが、信仰への「気力を失」って、「疲れ果てて」しまいそうになるとき、このキリストをしっかりと見つめなさい。キリストから、決して目を離してはなりません。主から心を離さず、いつもこの方を見つめていなさい。そうすれば、キリストは必ず、あなたの、わたしたちの力となってくださるでしょう。
少し日常のことに置き換えてみましょう。最近、交通事故が増えているそうです。事故は、どうして起こるのでしょうか? 人も車も、「よそ見」をしていると、事故が起きます。信仰も同じです。「よそ見」をしていると、信仰の事故が起きます。道をまちがえたり、キリストを見失います。救われた恵みや信仰の喜びがわからないというとき、必ずといってよいほど、われわれはイエス・キリストを見ていません。キリストを見るかわりに、ほかの何か、そして誰かを「見つめて」しまっています。つまり「よそ見」です。信仰の「よそ見」は、教会と一人ひとりに事故をもたらします。
さらに困ったことに、自分がよそ見をしていることに、われわれは気づかないのです。キリスト以外の何かに心をうばわれているのに、自分はちゃんと救い主キリストを「見つめている」と、信じてうたがいません。しかしそれは、キリストを信じているのではなく、「自分(たち)」を信じているにすぎません。
でも、信じるべき御方をしっかり「見つめ」、信じるべき御方を「信じる」なら、道はかならず開けます。頼るべき御方を「見つめて」、信頼すべきただ一人の御方に、わたしのすべてをゆだねる。この御方にだけ、自分たちの信頼を置く。そうすれば、いつどこからでも、再び「信仰を始める」ことができますし、「救いの完成」を目指して走り抜いていく力を、この方からいただくことができます。
「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」。キリストは、ご自身の前にある「喜び」をすべて捨てて、恥に満ちた死を受け入れ、永遠の滅びからわたしたちを完全に解放してくださいました。このキリストを、今日もわたしたちは心から「喜び」、永遠に「祝い」つづけるのです。
2021年2月21日 受難節 第1主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師