トピックス

祝福に変える御方

ネヘミヤ記13章1~3、ガラテヤの信徒への手紙3章13~14
お知らせ
主日礼拝説教

音声でお聴きいただけます。

祝福に変える御方

「その日、モーセの書」が、ふたたび「民に読み聞かされ」ました。

「その日」とは、どんな日だったのでしょう。12章43節:「その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った」。この日は、神殿を囲む城壁が再建され、神様に奉献した記念すべき日でした。バビロンに滅ぼされたエルサレムで、神殿を再建し、さらに城壁も建て直すことができました。聖なる都にふさわしい姿がエルサレムに戻ってきた、喜びの日です。この日、「神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝い」ました。エルサレム中に喜びの声がこだまし、その声は遠くまで響き渡りました。

そのような日に、イスラエルの民は、もう一度「神の言葉」を聴いたのです。再建された聖なる都での生活は、神の御言葉によって建て直され、取り戻されていきました。

そこで、大切なことを、イスラエルは、御言葉から聴き取りました。「アンモン人とモアブ人」を「神の会衆に加えてはならない」、という戒めです。かつて出エジプトの旅の途上、アンモン人は、飢え渇くイスラエルを「パンと水をもって迎え」なかった。モアブ人は、異教の預言者バラムを金で雇い、「イスラエルを呪わせようとした」からです。

とくにモアブ人の王バラクが、預言者バラムを使ってイスラエルを呪おうとした出来事は、わたしたちの記憶に強く残ります(民数記22~24章)。当時、世界最強のエジプト軍を振り切り荒野を進むイスラエルの姿に、モアブ人は恐れおののきました。モアブの王は、自分たちの力ではイスラエルに対抗できないと知って、異教の預言者の力を借りて、イスラエルを呪い滅ぼそうとしたのです。ところが預言者バラムは、イスラエルは神の民であり、神がイスラエルと共におられるのを悟り、呪うかわりにイスラエルを祝福してしまいます。

この出来事を思い起こして、ネヘミヤ記はこう記します。「わたしたちの神は、呪いを祝福に変えてくださった」(2節)。あのとき、イスラエルを呪うことを止め、祝福したのは異教の預言者でした。にもかかわらず、聖書ははっきり告げ知らせています。神の民を呪うことなど誰にもできない。祝福を与えることこそ神の御心だと預言者に悟らせたのは、ほかならぬ神なのだと。主がイスラエルと共におられ、片時も離れず歩まれているのに、どうして主の民を呪うことなどできましょう。イスラエルを選び出し、荒野の道を共に歩まれた神こそ、呪いを祝福に変えることがおできになるのです。そのことを異教の、偶像礼拝の預言者さえも悟るとは、神の偉大さが伝わってきます。

なお、この物語には後日談があります。民数記25章をみると、この直後、イスラエルの民が、偶像礼拝の罠にはまります。イスラエルがシティムという町に滞在していたとき、モアブ人の娘たちがやって来て、イスラエルの人々を誘惑します。彼らは、誘われるままに異教の神々にいけにえをささげてしまうのです。異教の呪いの力から、主なる神がイスラエルを守り、祝福までお与えくださったのに。そのすぐ後に、神の恵みを忘れ、祝福から迷い出て、神の民が偶像礼拝のとりこになってしまう。罪の誘惑に、なんと人間は弱いのでしょうか。

エズラ・ネヘミヤの時代、神殿再建と城壁の修復という、喜ばしい出来事を祝う日に、神様は、御言葉でイスラエルを戒めます。建て直された神殿で神の恵みを喜び祝い、自分たちの信仰の努力が報われたと、修復された城壁をながめて神を賛美するイスラエルに、神はあえて、過去のいまわしい過ちを思い起こさせるのです。自分たちを誇り有頂天になるのではなく、神を真に喜び祝う者になるように。喜びの日が、真に主を喜び祝う日となるように、神は御自分の民を、御言葉をもって、導こうとなさいました。

わたしたちも同じではないでしょうか。自分たちの教会の歴史を思い起こし、神に感謝をささげます。信仰の先輩たちの歩みを、草深教会のたどった道のりを、懐かしく、誇らしく思い起こします。創立記念日とは確かにそういう日かもしれません。しかし教会・神の民の創立記念は、世の中の会社や学校・団体の創立記念日とは一味もふた味もちがうのだと、主なる神はわたしたちに語りかけているようです。草深教会とわたしたちが今あるのは、神の恵み、だから主を喜び祝いましょう。大きな声で、大人も子供も、わたしたちの声が地の果てまで遠くに届くよう、主を喜び、主に感謝し、主を賛美しましょう。

しかし、わたしたちが喜び祝うのは、呪いを祝福に変えてくださった神であります。異教の呪いの力からわたしたちを守り、救い出し、祝福してくださった神。祝福を受けたすぐあと、神の恵みを捨てて、神ならぬ偶像に走ってしまう。お金やこの世の知恵や自分たちの力と経験ばかりに頼って、肝心なときに、ほんとうの意味で、神に頼ろうとしない。自分自身を救い主にゆだね、明け渡そうとしない。そのような罪に満ちた生き方を、教会とわたしたちの中から締め出しなさい。「アンモン人とモアブ人を会衆の中に加えてはならない」「混血の者を切り離せ」とは、神を信じない外国人を追い出すことではなく、神に頼ろうとしない心を、自分の中から締め出しなさい。自分の力に頼ろうとする心を、自分から切り離し、追放してしまいなさい。そういうことにほかならないと思うのです。

むしろわたしたちは、「呪いを祝福に変えることのできる御方」、すなわち主イエス・キリストをほめたたえ、この方に頼ります。喜びをもってこの方に従っていきたいのです。なぜならイエス・キリストは、神の祝福をあふれるほど受けながら、わたしたちのため、呪いの道を引き受けてくださった御方だから。十字架の道は、ほんとうなら、わたしたち罪人が受けるべき神の裁きと呪いの道でした。神の子が行くような道ではありません。しかし、キリストは、罪と呪いからわたしたちを救うため、十字架にかかり、自ら「呪いとなって」くださいました。神の祝福を捨て、呪いの道しか選び取ることのできないわたしたちに代わって、罪のない独り子が神の祝福をかなぐり捨てて、裁き・呪いをすべて引き受けてくださったのです。それは、律法の呪いから、神の裁きからわたしたちを贖い出し、罪の赦しと永遠の祝福を、わたしたち異邦人に与えるためでした。この御方から、約束された聖霊を、わたしたち教会は信仰によって受けています。

このキリストを、教会は喜び祝います。キリストから生まれてきた者たち、キリストに養われる羊の群れ、それがわたしたち教会だからです。

2021年3月7日 受難節 第3主日礼拝 説教者:堀地正弘牧師