わたしたちの神
わたしたちがしてきたことは無駄ではなかった。決して無駄ではなかった。そう思える人は幸いです。人生の終わりに、そのように言えたなら、その人生は、まちがいなく、神の恵みと慰めに満ちた人生といえるでしょう。
わたしたちがしてきたことは無駄ではなかった。決して無駄ではなかった。そう思える人は幸いです。人生の終わりに、そのように言えたなら、その人生は、まちがいなく、神の恵みと慰めに満ちた人生といえるでしょう。
3月も半ばを迎え春分の日を間近に控えています。主は昼と夜を分け、私達の歩みも主によって分けられます。主は正しき者と悪しき者とを分ける。それを教会用語では、「裁く」と表現します。主の御業は真実です。それを人の思いから判断しても、御言葉の真理に従うことにはなりません。
レビ記16章には、イスラエルの大贖罪日について記されています。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(レビ記16章1節)。神さまが大贖罪日について告げたのは、アロンの二人の息子が死んだ直後のことでした。
「わたしたちは祈りの度に、あなたがたのこと」でいつも、神に感謝せずにはおれません。そうパウロは、テサロニケの教会の人びとに伝えました。なぜなら、教会の人びとが迫害や困難な中でも、信仰・愛・希望をもって歩んでいたからです。
「教会らしい」と言われることがあります。「教会らしさ」とは何でしょう? どういうことをいうのでしょう? 今年度の目標は「喜び、祈り、感謝~聖霊によって生きる」です。どれも教会らしさをあらわす言葉にちがいありません。
2節の直訳「もし人がその人の代価に当たる額をもって、主に誓願するときには、その金額は、二十歳から六十歳までの男子なら聖所のシェケル銀貨で50シェケル、…」。これは、この代価によって、民が主に誓願を立てることができるという主旨です。レビ記27章のテーマは、誓いです。
みなさんは、神様の声を聴いたことがありますか?聖書には、神様と出会った人、神様から呼びかけられた人が何人も出てきます。そのなかの一人で、エレミヤという男の人がいました。イエス・キリストがお生まれになる700年ほど前に生まれて、活躍した預言者です。
レビ記26章のテーマは、祝福と呪いです。「あなたたちは偶像を造ってはならない。…わたしがあなたたちの神、主だからである。」(レビ26章1節)。唯一のまことの神のみを神とする、そこに命と祝福があります。これはイエスの最後の晩餐の言葉とも一致します(ヨハネによる福音書17章3節)。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神が…望んでおられることです」(5章16~18)。「喜び、祈り、感謝―聖霊によって生きる」。本年度、神様が、わたしたちを導く御言葉、そして目標をこのように与えてくださいました。
主イエス・キリストの御体なる教会は、救い主なる御子イエスの御降誕を思い起こし、主が公に現われたこと、殊に、洗礼を受けられて宣教の業を始められたことを思い起こして歩み続けます。
ある日、自分の方にやって来られる主イエスを見て、こう言い放った人がいました。洗礼者ヨハネです。ヨハネは、キリストを指さして、こう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。